晩 秋 の 賀 茂 川
欧米の教師と比較して、日本の教師の社会的地位は、高いところに位置しています。これは、欧米の教師の役割は、「頭の教育・教科(Instruction)」だけで、「心の教育(Education )」については、西欧では、伝統的に、教会がその責務を負っていからです。
日本の教師は、上記の2つの役割を、社会から背負わせられているので、社会的地位が高く、「先生」という称号を与えられていて、一方、西洋では、牧師に「Reverend(師)」という称号はありますが、教師には無い所以です。
日本には、西洋のような、「教会制度」はなく、第2次世界大戦以前は、「儒教道徳による教育」が、日本では行われていました。
この戦前の教育は、現在の北朝鮮の教育に似たところがあり、「マインドコントロールの伴う強烈な教育」でした。
戦後、「個人の信仰の自由・人権問題等」により、戦前のような、「強烈なマインドコントロールを伴う儒教教育」は不可能となっています。
にもかかわらず、日本の社会は、歴史的・伝統的な流れから、「心の教育は教師がするもの」と過去と同じように、「教師の社会通念」を捨てずに、日本人は教師にその責任を負わせたままです。
その一方で、日本政府は、戦後崩壊した「心の教育」をどのような方針で行っていくかを明確にせずに、西洋の教師と同様、「教師も労働者」と見なし、「三六協定」なるもので、教師を縛り、心ある教師が「心の教育」を行うことを、さらに難しくしています。
すなわち、教師を「時間の変数」で縛ることは、「子供の心の教育や、子供の才能を引き出す」という、「Education」を心ある教師に、さらに不可能にさせるだけなのです。
では、「心ある教師」とは、どのような教師なのでしょうか。「知的インテリジェンスの高い、賢い教師」のことでしょうか。いいえ、賢い人は、教師に不向きです。 なぜなら、頭の良い人は、出来ない生徒の気持ちが理解できませんし、成績の悪い生徒たちが、なぜできないのかが分かりません。
心ある、優秀な教師とは、「子供が好きで、自分の関わった子供を愛せる人のこと」です。
マザーテレサが言うように、愛の反対は「無関心」です。自分の受け持ちの生徒たちが、「すくすくと成長しているかどうか、フィードバックをしてあげる」と同時に、「非行に走っていないか、家庭内暴力など受けていないか」など、いつも、生徒たちを観察しているのが、「心ある優秀な教師」なのです。
従って、生徒を教育するには、時間の変数に囚われていては何もできないのです。心ある教師が多くいるかぎり、「三六協定」は、日本ではいつか破綻すると私は考えています。
しかし、「三六協定」が破綻しても、日本の教師には、「心の教育(Education)」によって、生徒の才能を引き出すことは、戦後は戦前より、難しくなっています。
生徒の成長には、「教科教育(Instruction)」だけでは、不十分なのです。
わかりやすく言うと、「どんなに知識がある生徒を育てることができても、その子が、核兵器を作るような人間に育ててはならない」ということなのです。
「心の教育」を考えた時、教師は、「宗教」というものを避けて通ることはできません。「心の教育」は生徒の心の内に良心を持たせることであり、「他人が見ていない所での自分の心と神との関係」の部分が存在するからです。
神とは、仏教・儒教・キリスト教等の神だけではありません。「無宗教」も一つの神なのです。
日本において、「心の教育」が重視されねばなりません。
日本の教育が、生徒たちの内面に「良い果実」を実らせるためには、制度改革も必要です。私立学校だけでなく、公立学校も絶対に道徳規範を持たねばなりません。
各家庭には、「信仰の自由」が人権として与えられているのですから、公立学校も私立学校と同じように、「仏教道徳の学校」・「儒教道徳の学校」・「キリスト教道徳の学校」・「無宗教道徳の学校」から、保護者は、「自分の家庭に最適な道徳規範のある学校」を選べる制度が必要です。
日本の教育の質を向上させるためには、「教師の質」も考えねばなりません。
プロの教師になるためには、教科教育がどれだけできても不十分です。「心ある教師」には、「信念」を持っていることが必要です。
しかし、「信念」は一つだけではありません。
「プロの教師になること」が頂上だとすれば、頂上に上る道はいくつもあるはずです。
どうか、若い皆さん、各自が自分の信じる「教師道」を貫いてくださることを祈っております。
最後に、私の教師としての信念を紹介して終わりたいと思います。
私の教師としての「信念」
私は若い頃、教育論の本を数多く読みました。
その中に鯵坂先生が著書である本がありました。その一節に、「親鳥がヒナを育てる所に、教育の原点がある」という内容の部分がありました。
40年以上教師生活して来た私は、このことの深い意味を、「自分の信念」としてきたように思います。
本能と言えばそれまでですが、親鳥は「無私の愛」で、巣に居るヒナたちに餌を運んできます。
来る日も、来る日も、餌を運んで来ます。
親鳥はヒナの成長のために必要なものは、たとえ、ヒナが好まないものでも、口に押し込みます。
しかし、巣立っていく自分の子たちには、見向きもせずに、また新しく生まれたヒナたちのためだけに、親鳥は同じように働き続けます。
教師の中には、生徒と友達になることを望む教師もいます。
私は違いました。生徒の成長を望む時、教師は、生徒たちが好きなものだけを与えられるとは限りません。
生徒たちの成長を願い、憎まれ役になって、教師は苦いこと、嫌な事も言わなければなりません。
また、叱らなければならないこともあります。
現役の生徒たちからは、教師は好ましい存在ではないことが多いのです。それでも、心ある教師は、成長して巣立って行く生徒を夢見て、「親鳥がヒナに餌を運ぶ」ように、齷齪と働くのです。
私にとつて、巣立った生徒が成長して、立派な姿を見せてくれることが、一番の喜びでした。
しかし、その喜びよりも、「親鳥のように、今、目の前に居るヒナたちのために働くことが一番大切」と考えるのが「私の信念」でした。
「森が火事になりました。火事になった森の木の一本に、ヒナ鳥が数羽いる巣がありました。親鳥は気が狂ったかのように、巣の上空を何回も旋回しています。
火が巣のある木に、まさに、燃え移ろうとするとき、親鳥は突然、巣目がけて、急降下し、巣に舞い戻り、ヒナたちを自分の羽で保護したまま動こうとしません。
翌朝、黒焦げになった、親鳥とヒナ鳥が発見されます。」
森が火事になった時、よく発見される光景です。親鳥は気が狂ったのではありません。
親鳥のヒナを守ろうとする「無私の愛」が死の恐怖に打ち勝ったのです。この無私の愛こそが、「生徒たちを育ている時に、教師にも必要だ。」と、私は考えて、40年間教師を続けてまいりました。
若い皆さん、良いプロの教師になる道は一つではありません。しかし、「プロの教師の頂きに上り詰めるには、「信念」が必要です。
若いみなさんが、それぞれの教師道を貫かれることを期待しております。