笑いとは? ユーモアについての誤解

 

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      古都の文化 大文字山 京都 高野川付近から

 

 

 ドイツの哲学者ディーケン(Deeken)は、「ユーモアとは、決して生まれつきの才能でもないし、裕福な家庭に生まれた恩恵でもないし、また、楽天家の持つ反応でもないと言っています。

 この意味するところは、ユーモアとは人生を歩んで行くごとに獲得していく天的能力・技術であり、どん底の人生を歩んでいる時にこそ使われる人を救う「魔法」なのです。

 ある生徒が私に言いました。「でも、社会的に地位の高い人・社長さん等は、ユーモアのある人が多いよ。これは裕福な家庭に生まれた恩恵の証ではないの?」

 私は即座に答えます。「それは逆ですよ。社長さん等ユーモアのある人が多いのは、社長になるまでの人生の過程で、苦しみ・悲しみ・試練等がその人を鍛えた結果です。その人が苦しみ・悲しみ・試練を通して、人生を乗り越えて行くごとに得ていった。その結果たまたま、ユーモアという技術を会得することになったのです。

 そのために、社会的地位を上り詰めた人物には、ユーモアという技術が備わっている可能性が高いのです。」といつも答えます。

 若い人たちの中には、「自分はユーモアがなくて、つまらない人間だ。」と考えて悩んでしまう人もいます。これは誤解です。

 若い人たちは、まだ人生の経験が浅いのですから、ユーモアが無くて当たり前なのですユーモアというものは、これからの人生を歩んでいく過程で会得していくものですから無くて当たり前なのです。

  私は思うのですが、「笑い」には大きく分けて2つの「笑い」があると思います。一つは、「人を貶めて笑いを取る」というもの。よくテレビに出てくるピン芸人』が笑いを取るために使う方法です。これは、「いじめ」にも繋がります。もう一つは、愛する人や友人が、悲しみに沈んでいる時、「なんとか、一瞬でも、その悲しさを忘れさせてあげたいと思って、相手を笑わせる技術。」これがユーモアです。

 故に、「悲しんでいる人を何とかしてあげたい」という愛情を持ている人でさえあれば、年をとるにつれて、ユーモアはその人の心の中に自然と花咲き、内面で成長していきます。
 ユーモア他人の苦しみを和らげる妙薬であるばかりでなく、「自分の悲しみ・苦しみから立ち直らせてくれる防御術」でもあります。

例え話

 今、Aくんという医大がいるとします。Aくんは医学部の6回生で、医者になるための国家試験を控えた時に失恋をします。

 さらに、受験という緊張感が影響したのか、「全身に湿疹」がでてしまいます。「国家試験・失恋・湿疹」の三重苦見舞われるのです。

 ところが、Aくんは、「ユーモア」を使ってこの危機的状況を見事に乗り越えます

 彼は、三重苦を違う視点から見ます「考えてみれば、人生で最も大切な時に、三重苦に見舞われる人間なんて、世界にはそうざらには居ないかも。俺って希少価値のある人間かも」と自分自身を笑い飛ばすのです。この「自分自身を笑い飛ばす」ことがユーモアであり、Aくんは、「自分自身を笑い飛ばす」ことによって、まず湿疹が癒されます

 次に自分を笑い飛ばしながら、「俺を振った彼女に、俺を振ったことを後悔させてやる」と持ち前のハングリー精神猛勉強をします。

 結果「医師になる国家試験」に見事合格してしまいます。ユーモアがA君を救ったのです。

「自分自身の欠点や失敗を笑い飛ばせる」というのは、人生を歩んで行く上で、最も大切な技術のひとつと、私は考えています。

「自分自身の欠点や失敗を笑い飛ばせる」ユーモアという技術身につけてください。この技術は、「人を愛し、慈しんで、人生を歩んでいれば、必ず、あなたの心の中に花咲きます。」

 どうか、ユーモアを武器にして、「踏みつけられても、踏みにじられても、立ち上がる雑草のような強さ」を身につけてください

 

分かり易い中東問題 No1. アメリカ合衆国から見た中東

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        キンネレテの湖 ガリラヤ地方 1978年

  中東問題で一番難しい問題は「エルサレム問題」です。エルサレム地理的に、ヨーロッパ、アジア、アフリカの中心に位置する都市で、アレキサンダー大王やヒトラーのような、多くの独裁者が、「世界政府を置くならば、エルサレム」と考えられた都市です。

 それと共にエルサレムは、「キリスト教ユダヤ教イスラム教の聖地」でもあります。

 現在エルサレムを支配しているイスラエルユダヤ人にとって、エルサレム首都です。しかし、「日本人が東京を日本の首都である」というのと、ユタや人にとってのエルサレムは全く別物である」ということを、我々日本人はまず理解しなければなりませんイスラエルユダヤにとっては、エルサレムは、恋人以上、憧れの存在であって、自分の命を犠牲にしてでも、守らなければならない存在」なのです。

 一方、名誉・誇りを重んじるイスラム教徒にとっても、エルサレムは、略奪、虜にされている恋人以上の存在であり、名誉を重んじイスラム教徒にとって、聖地が異教徒に支配されている」ということは、「許すことの出来ない出来事」なのです。

 この問題は、時間と神様、「許すという概念があるアガペーの愛」のみが解決できる事柄であって、人が政治で解決できる問題ではありません。

 なぜならエルサレム問題は政治問題ではなく、宗教問題だからです

 政治の世界では、「妥協」ということが存在しますが、宗教、特に、一神教の宗教では、「妥協」はあり得ないからです。

 そのため1970年代よりプロの政治家たちは、イスラエルとパレスチナ難民ユダヤ人とイスラム教徒の人たが、エルサレム問題に目を向けないエルサレム問題に注目することがないように」配慮して来ました。

 エルサレム問題にいったん火が付けば両民族双方に、「多くの血」が流されるということを知っていたからです。

 現在、この状況を大きく変えてしまう出来事が起こりました。アメリカのトランプ大統領イスラエルのネタニヤフ首相がこの「禁」を破りイスラエル寄りエルサレム問題」を動かしました

 トランプ大統領「大統領選挙に於いて、ユダヤロビー団体と穏健キリスト教右派の人々の支持を得る」、イスラエルのネタニヤフ首相は、「自分の訴追されている汚職事件から、名誉挽回の為」に、パンドラの箱」を開けてしまったのです。

 しかしアメリカ合衆国トランプ大統領イスラエルのネタニヤフ氏の目論みは自分たちの思うようには、行かなかったようです。

 ユダヤロビー団体も穏健派キリスト教右派の人たちもイスラエル国民にしても、支持半分程度しか得られませんでした。

 どちらの国にも、心ある人々は、エルサレム問題政治的動かすことは愚行であって、将来、「イスラエルイスラム教徒双方の多くの血が流されることに繋がる」知っているからです。

 歴史の真実を語っている、「旧約聖書ルサレム問題については、次のように人々に警告しています。

 「その日、私(神)は、エルサレムをあらゆる民にとって、重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う。地のあらゆる国々が集まり、エルサレムに立ち向かう。(ゼカリヤ書 12-3)」

 トランプ大統領は、「エルサレム問題」では、支持してほしい人々を二分してしまうだけの結果に終わりました。

 ところがトランプ氏は、大統領選挙終盤起死回生の満塁ホームランを得ることとなりました。共和党側近によって、UAEバーレーンスンニー派のアラブ2国が、イスラエルとの国交を樹立する」という快挙成し遂げたことを意味します。

 中東平和到来するの第一歩は、「周りのイスラム諸国がイスラエル生存権を認めること」です。

 国交樹立によって、ユダヤロビー団体も穏健キリスト教右派の人々全員の支持が得られる、民主党に対して、「大逆転」の一手となりました。

 これにより共和党候補のトランプ氏は、大統領選に於いて民主党候補のバイデン氏よりも、優位に立ちました。

 しかしトランプ氏の攻撃は9回表の攻撃です。バイデン氏には、9回の裏の攻撃が残されています

 民主党共和党を超える外交プラン・ヴィジョンを示すことができるなら、コロナ禍で失政続きのトランプ氏より、優位に立つことは可能です。

 しかし、バイデン氏前大統領のオバマのような外交をイメージしているのであれば、逆転の可能性は無いでしょう。

 20世紀以降のアメリカ合衆国大統領の中で、第76代大統領ジミー・カーターと並んで、前大統領オバマは、1位、2位を争う「人格者」であることは間違いありません。

 しかし、平和を願うが故にかえって、「世界に混乱を招き、多くの血を流させる結果」オバマ招いたようです。

 世界の人々が、家族と平穏無事な生活が送るには、「平和を唱える」だけでは実現しなかったのです。重要なのは、「世界の国々の力バランス」だったのです。

 その為国に警察が必要なように、自国のエゴ的な利益を追求する、手段を選ばない国々に対しては、「世界の警察」が必要だったのです。

「世界の警察」としてのアメリカの役割いかに大切であったかは、歴史を見れば、一目瞭然です。

 「平和を愛するあまり、中東でのアメリカの干渉」を嫌い、カーター氏は、イラン革命を容認し、アメリカの友人イランを失っただけでなく、現在のイスラエル対イランの「世界大戦になりかねない構図」引き起こし中東での多くの悲劇を生みました

 オバマも、「平和を愛するあまり、中東でのアメリカの干渉」を嫌いイスラム国という怪物」を生み出してしまいました

 それによって、過去のどの時代よりもより多くの悲劇と犠牲を生み出し多くの「血」が流されたこと歴史が証明するところです。

 バイデン氏が大統領選挙に勝ち抜くにはユダヤロビー団体穏健キリスト教右派の人々の支持が不可欠です。

 バイデン氏の9回裏の攻撃を、私達は注目しなければなりません。

 次回は、「イスラエル・イランから見た、分かり易い中東問題解説を試みるつもりです。

 

 

人類とタイタニック号と原発事故

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             雲間からの月光 京 都               

 

 皆さんは、旧約聖書の中のバベルの塔のお話をご存知でしょうか。「各言語の起源としてのお話」という所でしょうか。しかし、この「バベルの塔」のお話には、旧約の時代からの「厳粛な教訓」が存在するお話なのです。そのテーマは「人類の傲慢さ」です。
 
タイタニックは、20世紀の初頭に、その当時の最新の技術で造られた不沈」と呼ばれるほどの「優れものです。その当時の科学者たちは、「科学の粋を極めたタイタニック号」自慢し、バベルの塔を創ろうとした人々と同じ望みを抱くようになりました。

 「神にとって代わる」という野望です。

彼らはその野望を込めてタイタニック号の船底「神は死んだのだ」と書いたと言われています。これは、「もはや、人類は神の代わりに、自然界を支配できる存在になった。」という意味です。
 20世紀初頭に、「人類の傲慢さ」は頂点に達しました。

 ここに、「自然界の摂理」が働きます。

タイタニックはその処女航海に於いて、氷山のために沈没してしまいます。


「自然界の摂理」「人間の傲慢さ」打ち砕いたのです。

 地球・自然界とは、 神から私達人間に与えられたものではなく、マグマという血を滾らせる生き物だと私は考えています。

 私達人間は、自由意志を与えられています。同じように、地球・自然界自由意思を、から与えられているようです。

 は、私達人間の自由意志を尊重されるように自然界の自由意志をも尊重されるようです。

 21世紀の初頭に於いても、「人間の傲慢さ」は頂点に達したようです。
 現代の科学者たちの中には、傲慢にもゲーテ作品中の登場人物である、ファウスト博士同じ選択してしまったようです。
年老いたファウスト博士は、永遠の若さを手に入れるために悪魔に自分の魂を売り渡します。

 同様に人類は永遠のエネルギーに魅せられて、悪魔に地球を売り渡し、地球放射能によって、永遠に蝕まれてしまうことを許してしまったのです。


 2011年東日本大震災時の津波によって、

「福島原子力発電所」の事件がおきます。
この事件もまた、自然界の摂理」が「人間の傲慢さ」を打ち砕いた事件だと言えます。

 科学者たちは、「科学の進歩によって、人類は自然をコントロールできるようになった。」と過信し、傲慢にも、「原発は100%安全」という神話を打ち立てたのです。


 この神話・過信「自然界の摂理」が木端微塵に打ち砕いたのが、「福島原子力発電所の事件」の結末です。


 人間の科学による進歩裏に潜む「人間の傲慢さ」「自然の摂理」の関係を示す、「歴史上の出来事」を2例挙げてみました。


 元々人類は、自然に対して、歴史の初めから闘いを試みて来ました。しかし、その戦い「人命を少しでも守ろう、救おう」という戦いでした。そうして、生み出されて来たのが「科学」です。


 科学の歴史に於いて、科学を武器に、自然から人の命を守ること」が、人類にとって最も大切なことだったのです。

 それとともに、歴史の初めから、自然に対する畏怖と敬意が人類にはあったのです。
 ところが、現代人は、この自然に対する畏怖の念を忘れかけているのではないでしょうか。

 人間の「神の域に入り、自然界の支配者になろうとする傲慢さ」が、災害・病気等を招く結果繋がっているのではないでしょうか。

 「地球がこのままでは滅びる」自然災害や感染病等により、「自然界の摂理」が私達人類に繰り返し警告しているのではないでしょうか。


 東日本大震災を通して、私達日本人は、自然の自由意志と言う脅威に晒され多くの尊い命を失っています
 

その失われた尊いを、私達は無駄にしてはいけないと思うのです。

「私達は、今現在の試練に勝利しなければなりません。

 しかし、それとともに、私たち現代の人間は、自然の摂理の警告に耳を傾けるべきではないでしょうか」というのが、

  本日私の伝えたいメッセージです。
 

 

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コロナウィルス禍を経験した私達が、杉原千畝氏から学ぶこと

 

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                新島襄の良心碑

               京都  同志社大学

 

 杉原千畝という人物


 皆さんは、杉原千畝という人のことを知っておられるでしょうか。彼は、「日本の外交官の中で、世界において、最も尊敬の念を持たれている」と言っても過言ではない人物です。
 彼は、「第2次世界大戦中リトアニアの日本領事として赴任していた時に、ナチスの迫害の中、欧州各地から逃れて来たユダヤため、外務省からの訓令反して、大量のビザを発給し、5000人以上の命を救った」という人物です。

 彼はノーベル賞より権威があると言われる「ヤド ヴァシェム(諸国民の中の正義の人)という賞を受賞した人物でもあります。
 
 なぜ、彼は「政府の命令に反してでも、外交官として、成すべき事ができたのか。」
それは、彼が明治時代の人物特有の気骨さがあつたことも起因しています。
 さらに、人命の尊さを知っていた人物だったからです。

 また、彼は、日本に対して、真の祖国愛を持っていたからだと思います。

 だから、彼は「外交官として、マニュアル通りに歩む人生」捨て多くのユダヤ人の命を救うことができたのだと思います。

 つまり、もし、政府の命令通りにして、多くのユダヤ人を死なせてしまうなら、日本は将来、世界史に於いて大罪を犯したとして、非難されるということを理解できた人物なのでしょう。
 だから、彼は「最愛の家族まで巻き込むかもしれない」と分かっていても、将来の日本のために「正義を貫く」ことができた人物なのです。


 杉原千畝早稲田大学出身で、同志社大学を設立した新島襄よりずっと後の時代人物ですが、「政府のマニュアル通りには動かない人物を多く輩出し、日本の社会を大きく変えよう」と考えていた新島襄は、

杉原千畝のような人物を数多く同志社で輩出することを願っていた」と私は確信しています。

 

祖国愛と愛国心の区別
 私は愛国心と祖国愛」を区別して使っています。

 愛国心とは、「日本の国さえ繁栄すればそれで良いとする利己的な愛、盲目の愛」として、私は定義しています。
 一方、祖国愛とは、「自分の国を愛せない人が世界を愛することはできない。しかし、自国の繁栄・幸せは、周りの国々が日本と同じように豊かにならなければあり得ない。」というグローバルな視野に基づく郷土愛のことです。

 

マニュアル通りに歩む人生
 さて、日本の社会には、至る所に、マニュアルが存在します。」

 私は、教師でしたが、私の所属していた学校にも、マニュアルは存在しました。

 ここで理解しておいて欲しいことは、「今、Aさんという教師がいます。もし、Aさんが、ある生徒を死なせたとします。

 しかし、Aさんが学校の命令したマニュアル通りにしていたならば、学校には責任があっても、個人には、責任を問われる事はない」ということです。


 マニュアル通りに暮らしていれば、人生は楽に過ごせるのです。

この「マニュアル通りに暮らす楽さ」が日本の社会を蝕んでいるようです。


 コロナウィルス禍を経験した私たちは「日本の最上位に居る官僚や政治家たちが、マニュアル通りにしか動けず国民を苦しめている状態」経験しています。

しかし、知事の中には、マニュアル通りに動かず、地域の人たちのために奔走しておられる知事も居ます。


 この知事と杉原千畝氏とには、共通点があります。

 

私たちが学ぶべき事


 共通点とは、杉原千畝氏は祖国愛と命の尊さから、ユダヤ人を救いました。この知事は、命の尊さと地域とその人たちを限りなく愛する郷土愛で、地域に貢献できています。」

 つまり、両氏とも、命の尊さと民衆に対する限りない愛情を心に信念として保持しておられるから、偉業を成し遂げる力があるのです。


 私たち教育者や親は、子供たちに「マニュアル通りに暮らして楽に生き、責任回避ばかりを考える人生」を選ばせるのではなく「私利私欲のためではなく、良心の自由に従って生きる」という新島襄の教えをもっと大切にさせるべきではないでしょうか

 新島襄 望んだ人物たちが日本に数多く輩出してこそグローバルな時代に於いて、日本・日本国民が繁栄する道があるのではないでしょうか。

これが伝えたい本日のメッセージです。

 

 

涙はなぜ出るの? 苦しみや悲しみのどん底に居る人のために。この話はノンフィクションです。

 

 

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            スイス ローザンヌ湖 1978年

私は人生を歩む中で、神様からについて「悟り」のようなものを学んだ気持ちでいます。

 は本当に悲しい時、どん底の苦しみに悶えている時には、出ないようです。

 悲しみ・苦しみのどん底に居る時には何にも反応できないぐらい放心状態になるようです。

 放心状態の時には、美しいものや,美味しいものに出会って何も感じることができないのです。
 このような極限状態悲しみ喜び長く続くと、人は死んでしまう「弱い動物」なのです。そこで、人間は死を防ぐために流すのです。
 

 この悟り」のようなものに私が至ったのは、私の人生で2つの悲しみを経験したからです。

 一つは、「長女が出産時に脳内出血を起こし、死ぬ確率三分の一、障がい者になる確率が三分の一、助かる見込みが3分の一」と医者から宣告された時です。
 しかし、この時には涙が止め処となく流れました。これは私がまだ、健全だからでした。

 
もうひとつは、妻がウィルス性脳炎にかかった時のことです。

 当初、妻は高熱とともに、記憶が無くなっていくのです。入院の時点では、妻の理性が無くなってしまいました

 暴れるので点滴での治療すらできません。そこで、医者麻酔を打ち、冷水ベッドで妻の熱を下げようとしました。その日以来妻の意識は戻らず、妻は「植物人間」となりました。さらに自発呼吸が困難になり、緊急手術切開して、機械を使ってでしか呼吸ができない存在となりました。

 通常の「植物人間」意識がなくても、自分で呼吸できます。しかし、妻はもはや自発呼吸すらできない「機械を使ってでしか呼吸できない物体」となってしまいました。

 この時点で担当医は「これ程悪化するとはもはや助かる見込みはないと思ってください。しかも、明日お亡くなりになるかもしれません。あるいは、10年間この状態が続くかもしれません。それは神様しか分かりません」と宣告されたのです。


その日以後、親戚のものに助けられながらの看護の日々が始まりました。「私は絶望・悲しみのどん底に突き落とされました。」

 このような状態に追い込まれて初めて「涙がでない、放心状態」となりました。

食べ物を食べても味がしませんし、春になって満開の桜を見ても何の反応もできません。」

 このままいけば「死んでしまうのでは」と思うほど極限状態に追い込まれました。

 
 そんな日々が続いたある日、私はどんな書物も読む気にならなかった時でした。偶然私の手元に「賛美歌の本」があることに気づきました。何気なしに手に取り、開いたページが私の愛称賛美歌「慈しみ深き」でした。「慈しみ深き友なるイェスは、悩み・悲しみにしずめる時も祈りに答えて、慰めたまわん。」

 私は蚊の鳴くような声で、この歌詞を口ずさんでいました。

 その時です

 突然、私の目に「涙」溢れて来たのです。と同時に「今まで極限状態の緊張で張りつめていた私の体が癒され解されるのが分かりました。「涙」について「悟り」のようなものを理解したのは「その瞬間」です。

 人間は極限状態が長く続くと死んでしまう。それを防ぐために、神様人間に与えていてくださる涙を流すことによって健全な心と体に戻れる涙は神様からの贈り物なのです。涙を流せるというのは「健康の証」なのです。

 
これが自分の人生を通して、「涙」について私が学んだ悟りです。

 

はじめまして!

 はじめまして。私はある学校法人で40年以上教師を務め、晩年は、学校法人の理事・評議員として、人生を歩んで参りました。現在、定年を迎え、これを機に、ブログを通して生徒の皆さんや同僚の方々に何かお役に立てる「元気と勇気」を心に持ってもらえるようなお話ができればと願っています。

人生を歩んで行くうえで、「このような考え方もあるのか」と思える「元気と勇気を与えられるお話」を届けられれば私の幸せです。

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京都 北山