ロンドンのホテル クリスマスの飾り 2018年
私達日本人も、キリスト教文化の影響を大きく受けています。
例えば、太陽暦です。太陽歴は、「BCとAD」に分けられますが、「BCは、Before Christの略」、「ADは、Anno Dominiの略」で、紀元前、紀元後は、主イエスキリストが生まれる前と後という意味です。
私達が日常使っている暦も、紀元は、キリストが原点・中心なのです。
クリスマスはイエスキリストの生まれた日のことですが、最初のクリスマスは、聖書では、「イエスキリストは馬小屋で生まれた。」と記してあります。
これには、深い意味があります。
当時、馬小屋ほど汚く、悪臭のする場所はありませんでした。イエスキリストは最も穢れた場所で生まれたのです。
現代人にも、「当時の馬小屋のように、穢れた場所」があります。それは、「心の中」です。
現代人の「心の中」は、「利己主義・名誉欲・憎しみ・妬み・虚栄心、等」、汚いもので満ちていて、悪臭を放っています。
つまり、「当時の馬小屋」は、「人間の心の中」の象徴なのです。
最初のクリスマスで、礼拝することを許されたのは、三人の賢者(知識があるだけでなく、道徳的にも優れた人)と、羊飼い(素朴で正直に人生を歩んでいる貧しい人)だけでした。
敬虔なクリスチャンたちは、クリスマスには、イエスキリストを礼拝しに教会へ行きます。
それは、毎年迎えるクリスマスの日に、自分の汚れた心の中、すなわち、馬小屋のような自分の心の中に、もう一度イエスキリストを迎え入れ、「自分の心の主人として受け入れる」ことを決意するのです。
イエスキリストを「自分の心の主人である」ことを再認識する日なのです。
さて、上記のことは、「敬虔なクリスチャン」のお話です。
私達日本人はキリスト教徒とは限りませんから、クリスマスの意味は自ずと違います。
しかし、日本のように、「商業ベースで、企業が金儲けの手段として使うもの」だと考えるだけでは、国際人としては失格です。
若い皆さんが国際人として、西洋社会では、活躍することはできません。
西洋社会では、一般人のクリスマスの意味は、「愛を分かち合う日」なのです。
クリスマスだけは、「自分だけでなく、他の人に思いを馳せる日」なのです。
「他の人」とは、誰のことでしょうか。
マザーテレサは、存命中にこのような言葉を私たちに残しています。
「世界には、戦争や飢饉で、死に瀕している子供たちが約7億人います。この事実から目をそらして、何もしない人が、最も愛から遠い存在です。愛の反対は無関心なのです。」
現在は、もっと多くの貧しい人たちが「死の危機」に瀕しています。
このような貧しい人々のために、働くため、一歩を踏みだす日がクリスマスです。
でも、「他の人」とは、貧しい人だけの事ではありません。
家族もまた、「思いを馳せる大切な人」です。
貧しい人たちに、募金するように、家族に素敵なプレゼントをすることも、クリスマスの日に行う大切なことかもしれません。
西洋の考え方で大切なことは、「思うだけでは不十分で、自分の足で、一歩を踏み出すこと」が大事です。
「私には、貧しい人たちに募金するお金もないし、家族に素敵なプレゼントをする余裕もない。」と嘆く人がいるかもしれません。
しかし、そんな人々こそ、本当のクリスマスを迎える資格のある人たちです。
では、どのようにして、クリスマスを意義ある日にすれば良いのでしょうか。
イタリア神父であったアシジのフランシスは、次の様に、私達に伝えています。
「神よ、私があなたの平和の道具となることができますように。
憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに許しを、絶望のあるところに希望を、
悲しみのあるところに喜びを、闇のあるところに光を、もたらすことができますように。
私に慰められるより、慰めることを、理解されるより、理解することを、愛されるより、愛することを求めさせてください。」
この言葉の中に、「他の人たちに対して、一歩を踏み出す方法・秘訣」があると私は考えています。
日本人として、世界の貧しい人たちに目を向けることは大切です。
しかし、思うだけでは、何も変わりません。
まず、私達は、傍に居る家族に対して、平和・幸福を作り出す道具となりましょう。
そして、自分の家族に起きた平和・幸福を隣に住んでいる人たち、隣人に少しだけ分け与えましょう。分かち合いましょう。
この小さな一歩、一歩が大きな世界平和につながっていくのです。
これがクリスマスの意味です。