日本人にとってのクリスマスの意味 

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       ロンドンのホテル クリスマスの飾り 2018年


 私達日本人もキリスト教文化の影響大きく受けています。

 例えば太陽暦です。太陽歴は、「BCAD」に分けられますが、「BC、Before Christ略」「ADは、Anno Domini略」で、紀元前、紀元は、主イエスキリストが生まれる前と後という意味です。

 私達が日常使っているも、紀元は、キリストが原点・中心なのです。

 クリスマスエスキリストの生まれた日のことですが、最初のクリスマスは、聖書では、「イエスキリストは小屋生まれた。」記してあります。

 これには、深い意味があります

 当時馬小屋ほど汚く、悪臭のする場所はありませんでしたエスキリスト最も穢れた場所生まれたのです。

 現代人にも「当時の馬小屋のように、穢れた場所」ありますそれは、「心の中」です

 現代人の「心の中」は、「利己主義・名誉欲・憎しみ・妬み・虚栄心、等」、汚いもの満ちていて悪臭を放っています。

 つまり、「当時の馬小屋」は、「人間の心の中」の象徴なのです。

 最初のクリスマスで、礼拝することを許されたのは三人の賢者(知識があるだけでなく、道徳的にも優れた人)と、羊飼い(素朴で正直に人生を歩んでいる貧しい人)だけでした。

 敬虔なクリスチャンたちは、クリスマスにはエスキリスト礼拝しに教会行きます

 それは毎年迎えるクリスマスの日に、自分汚れた心の中、すなわち、馬小屋のような自分の心の中もう一度エスキリスト迎え入れ、「自分主人として受け入れる」ことを決意するのです。

 エスキリスト自分の心の主人である」ことを再認識する日なのです。

 さて、上記のことは「敬虔なクリスチャン」のお話です。

 私達日本人はキリスト教徒とは限りませんから、クリスマスの意味は自ずと違います

 しかし日本のように「商業ベースで、企業が金儲けの手段として使うもの」だと考えるだけでは国際人としては失格です

 若い皆さん国際として、西洋社会では、活躍することはできません

 西洋社会では一般人クリスマスの意味は、「分かち合う日」なのです。

 クリスマスだけは自分だけでなく、他の人思いを馳せる日なのです。

 他の人」とは、誰のことでしょうか。 

 マザーテレサ存命中このような言葉を私たちに残しています

世界には、戦争飢饉で、している子供たち7億人います。この事実から目をそらし何もしない人が、最もから遠い存在です。愛の反対は無関心なのです。」

 現在はもっと多くの貧しい人たち「死の危機」瀕しています

 このような貧しい人々のために働くため、一歩踏みだす日クリスマスです。

 でも、「他の人」とは貧しい人だけの事ではありません

 家族もまた「思いを馳せる大切な人です。

 貧しい人たちに、募金するように家族素敵なプレゼントすることも、クリスマス行う大切なことかもしれません。

 西洋の考え方で大切なことは、「思うだけでは不十分で、自分の足で、一歩を踏み出こと」大事です

 「私には、貧しい人たちに募金するお金もないし、家族に素敵なプレゼントをする余裕もない。」嘆く人がいるかもしれません。

 しかし、そんな人々こそ、本当のクリスマスを迎える資格ある人たちです。

 では、どのようにしてクリスマスを意義ある日にすれば良いのでしょう

 イタリア神父であったアシジフランシス、次の様に、私達に伝えています

「神よ、私があなたの平和の道具となることができますように。

 憎しみのあるところにを、争いのあるところに許しを、絶望のあるところに希望を、

 悲しみのあるところに喜びを、闇のあるところにを、もたらすことができますように

 私に慰められるより、慰めることを、理解されるより、理解することを、愛されるより、愛することを求めさせてください。」

 この言葉の中に「他の人たちに対して、一歩踏み出す方法秘訣があると私は考えています。

 日本人として世界の貧しい人たち向けることは大切です

 しかし思うだけでは、変わりません

 まず、私達は、傍に居る家族に対して、平和・幸福を作り出す道具なりましょう 

 そして自分の家族に起きた平和・幸福を隣に住んでいる人たち、隣人に少しだけ分け与えましょう分かち合いましょう。

 この小さな一歩、一歩大きな世界平和つながっていくのです。

 

これがクリスマスの意味です。

 

 

 

中村哲氏暗殺、追悼1周年に思うこと。

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          アンネのバラ 京都 嵯峨野教会

 

2019年12月4日、正午前後だったと思います。

 当時英語教師で会った私は、例年3学期の初めに、英語教材として、中村哲氏の伝記」生徒たち学ばせていましたので、教材研究の一貫として、事件直前に、「クリスマスのために、アフガニスタンサプライズ訪問をしていたトランプ大統領の記事」パソコンで検索しておりました。

 その時偶然中村哲「テロによる銃撃襲撃事件で負傷の知らせ」を発見しました。

 当初病院に運ばれた中村哲は、「重体ではあるが、命は別状なし」との報道でした。

 しかし夕方になって、中村哲氏死亡」の悲報飛び込んできました

 私は、「この事実を生徒たちに、どのように伝えるべきか」苦闘、思案したのを、今も忘れることはできません

 中村哲氏は、「20世紀が生んだ偉大な魂」であり、「世界で尊敬される数少ない日本人の一人」であり、「2001年9月11日歴史を変える悲劇計画されたアフガニスタン滞在し、当時タリバン政府と交渉していた数少ない日本人目撃者」でもあります。

 歴史大きく変わっていくのを現地目撃した証人なのです。

 中村氏医師として、イスラム社会で貢献することになります。

 彼の素晴らしい所は、「白人至上主義の人たちとは違い、クリスチャンでありながら、キリスト教文化を押し付けることなくイスラム教の文化尊重できた」ところです。

 「互いの違いから出発し愛・友情・平和等の普遍的価値観について討論できる強い城、アイデンティティ内面に持ちイスラム社会の人々から尊敬の念持たれたところです。

 つまり、彼は「国際人」としての素養身につけていたのです。

 そして強い意志により、清潔な水不足しているために、に逝く多くのアフガニスタンの人々特に供たちのために、まず井戸を掘り、多くの命を助けました

 そしとさらに広大な用水路を完成させ、今では十万の人々の生活を支えることに成功したのです。

 ただ、人間は思うだけでは、不完全です。何も世界はかわりません。

 しかし一人の人間強い意志を持ち、立ち上がった時に、「素晴らしい奇跡」起こるのです。

 この事を生徒たちに伝えずに中村哲氏の偉大さを日本人の心から忘れさせてしまうなら、これは許されないことだ」中村哲氏の偉大さを伝えることが、私の残り少ない教師生活の使命だ」当時は、自分の心に言い聞かせたものです。

 中村哲氏を暗殺した犯人は、まだ判明していません

 本当に「偉大な魂」と呼ばれる人は、全員から愛されることありませんその人が邪魔、敵になる人たちからは抹殺したいと思われる人が本当「偉大な魂」なのです。

 その意味で中村哲は、「20世紀が生んだ最後の偉大な魂の一人間違いありません

 中村哲暗殺した集団もしくは、国はまだ判明していません。

 日本の警察も一年間捜査して、まだ犯人集団を特定できないのは、その集団が、用意周到に計画を練り、暗殺を実した高度な集団証拠です。

 犯人はアフガニスタン復興を望まない集団」の存在します。 

 アフガニスタンの復興を望まない理由2つの可能性があります。

 一つはアフガニスタン作られる「麻薬・アヘン」に関係しているかもしれません。

 もう一つの可能性は、アフガニスタンが豊かになれば、自分たちの、あるいは穀物輸出できなくなことを懸念した集団、もしくは可能性があります。

 しかし、現在どんな圧力がかかっていようともいつの日「歴史」「犯人は誰だったのか」を世界中明確にしてくれることを私は確信しています。

 10万人以上の命を救い数十万の人々の生活を支えた中村哲ですが、ノーベル平和賞受賞することはありませんでした

 もし、彼が、キリスト教社会で同じことをしていたら彼はまちがいなくノーベル平和賞」を受賞していたでしょう。

 イスラム社会、しかも、「9・11のテロを起こしたアフガニスタンでの出来事」ということで、西洋からは、評価されなかったのでしょう。

 これは「彼を評価しなかった、白人至上主義の傲りが、無意識のうちに、西洋の人々の心の中存在する現れ考察します。

「命」尊さキリスト教徒にもスラム教徒にも変わりはありません

 もし西洋の人々命の重たさに変わりはなく「全ての人の命は、この地球より重たい」と信念あったなら中村哲ノーベル平和賞」を受賞していただろうと私は思います

 中村哲氏が暗殺されたことで、アフガニスタン復興」は、確実に遅れることになるでしょう。

 しかし、しかし、アフガニスタン心ある人々」が、中村哲氏の意志継ぎ、1964年、東京オリンピック当時の「に包まれた、豊かな農業国」として、復活ること私は確信しています。

 なぜなら中村哲は、アフガニスタンの人々心奥底「いつまでも消えない灯火偉大仕業を、もうすでに成げてしまっているからです。

中村哲氏のご家族と関係者の皆様に神様からの慰めがありますように。

 中村哲偲んで一筆残します

コロナ禍の日本に於ける、リーダーの理想像 大阪府知事に学ぶ

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           紅葉の季節を迎える 賀茂川

 

   現在コロナ禍の火中にある日本は、医学的見地からの意見経済を動かそうとする見地と反する2つの意見の中で、難しい舵取りを、リーダーたちは、選択しなければなりません。

 まず政府・官僚たちの中で、好ましくないリーダーたちは保身のために、自分の地位保全だけを考え、責任が自分には来ないよう立ち回る政治家、官僚たちです。

 日本は長い間物質的に恵まれた「飽食時代」という温室の中居ることができました

 ですからどのような人がリーダーになっても舵取りは難しいものではなくずる賢く、自分に責任が来ないようにマニュアル通りにしか動かないで国民のため何もしなくても暗躍できたのです。

 マニュアル通りに動くだけで良いリーダーのように振る舞うことかできたのです。

 いや、むしろ「自分の地位保全のために、マニュアル通りにしか動かない人間だけ日本の上層部に生き残ってしまう社会」これが、今までの、日本社会だったのです。

 しかし現在、私たちは、コロナ禍の中で戦時中同じような苦難を経験している最中日本を支えなければならないリーダーの中に「責任のなすり合い」をして他人事のように、マニュアル通りにしか動かないリーダー誰なのか国民にも分かる「良い機会」得ているのです

 現在、日本の真のリーダーどうあるべきなのか真剣に問い国民自身が「どのようなリーダーを、私たちは選択すべきかを考える機会」得ているです

 まず政府から、見ていきましょう政府まずできることでしなければならないことは「お金の拠出」です。

 専門家の話によると「コロナ禍で苦しんでいる人たちを救うには、30兆円以上の予算が必要」とのことです。

 しかし、現在政府補正予算さえ使い切るのを躊躇い十分な計画をも立てられずにいるのではないでしょうか。

 コロナ禍が起こるまで多くの国民は、法律通り、税金を支障なく払っていたのです。その様な国民の中の今現在苦しんでいる人々を救わずして自分の地位保全しか考えないリーダーたちに任せるならば日本の社会は「弱い立場の国民だけを切り捨てしまう社会」になってしまいます。

 「コロナ禍が無ければ家族平穏に暮らせた人々のために今、お金を使わないで、いつ使うのですか!」と言動して、実行するリーダーを私は待ち望みます

 知事の中にも保身のため「政府と責任のなすり合い」をしている知事もいるかもしりません。

 しかし、実際地域で事情は様々なのですから、最前線で戦うのは、知事です。

 政府知事たちそれぞれが決断できるように「実弾であるお金」を拠出しなければなりません

 知事に求められる資質があります。私は2つのものが必要だと考えています。

 私の滞在していたイスラエルには、「ヤド ヴァシェム(諸国民の中の正義の人)」という賞

があります。受賞する時に渡されるメダルの裏側には、次のように書かれています「一人の人の命は、この地球よりも重たい。」

 この考え方がリーダーには必要なのです。

 2つ目「愛」です。知事にとっては、「自分が守らなければならない地域住民への限りない愛情」すなわち地域愛」が必要です。

 自分の地位保全第一に考える知事は、マニュアル通りにしか動けず、何もできません。

 それに対して「人命の重たさと地域愛」を心の中心に添える知事は、たとえ失敗をしても、これからの歴史が、その知事は正しかったことを証明してくれます。

 この意味で最も私の理想に近い「知事」は、阪府知事です。

 コロナ禍での方策には、「人の命の尊さと大阪に対する限りない地域愛」中心に存在します

 そして現在大阪府知事新しい決断をする立場に追い込まれています

 大阪府が今進もうとしている道は、正しいとは思いませんし、私は違う意見を持っています

 しかし、コロナ禍は未曾有の出来事です。大阪府知事が正しいのか、私の持論の方が正しいのか、何が正しいかは「神のみぞ知る事」です。

 大阪府知事の方針は、自分の保身のためでなく、すべて、府民に対する「人命の尊さと地域愛」から出た発想ですから、たとえ結果が失敗のように見えてその結果は未来の大阪府民の「宝」となり知事は、その経験によってより最善の方向へと、府民を導けることかできるのです。

 「最後の授業」で有名ランディー教授も、次のように述べています。「経験(成功へと導くもの)というものは、手に入れたいと思うものが、手に入らない時(失敗した時)に、初めて手に入るものなのです。」

 大阪府知事発令する方針は、「功を奏する」のか、「効果があまりない結果」に終わるのか分かりません。

 しかし大阪府知事の発想は、「人命の尊さと地域愛」から出ていますから、たとえ、失敗という結果になっても、長い目で見れば「大阪は、経験という宝を手に入れ、正しい道を歩んでいる」ということを、将来、「歴史」証明してくれるでしょう。


 結 論

 政府高官や官僚や知事の皆様、どうか、今までのように「保身のために、マニュアル通りにしか動かない」という姿勢を改めてください。

 大切なのは、何をするかではなくて、「命の尊さと国民への愛」に基づいて考え、行動することです。保身のために「失敗」を恐れてはいけません

 今はもはや日和見をしている猶予はありません失敗を恐れて、何もしなければ、取り返しのつかない所へ、日本国は追い込まれます。

 勇気を持って謙虚に自分が正しいと思う一歩を踏み出せば良いのです。

 ただ大切・不可欠なのは「忖度」ではなく「命の尊さと国民を愛する」という信念を心の奥底に据えることなのです。

 

 

 

 

 

 

日本人に似ていたアイルトン・セナに学ぶ

  

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              京 都 御 所
           

 

 あるアンケートで、「幸せになるということは、お金を手に入れ、物質的に恵まれることである。」という問いに「はい」と答えた人が70パーセントを超える国が3つ存在したそうです。「中国・ロシア、そして我が日本国」です。

   果たして物質的に恵まれることが、一番の幸せでしょうか。

 教師生活40年続けていて、生徒を教えている時に、私が一番気になった事は、「目の輝きを失っている生徒の数が多いこと」です。この疑問に対して私の解答は、「物質的に恵まれ過ぎて、何も自分で求める必要がないからだ」結論づけました。即ち「日本という恵まれた温室の環境に居て、夢すら持てない、持つ必要のない日本原因があると考えたのです。努力をしなくても物質であれば、殆どの物が手に入ってしまう日本の環境が、生徒受け身で、夢を持とうする気力すら起こさせないのではないか」という結論達しました。

 例えば開発途上国の子供たちは、物質に恵まれていませんが、反って夢を持てます「多くの自国民が飢えで苦しんでいる。だから自分がこの国を富める国にするのだ。」という持てます「多くの幼い子供たちの命が、感染病で亡くなっています。自分が医者になって、幼い命を救うのだ。」

 こんな動機にして、貧しい国々の子供たちは、学校で、目を輝かせて勉学励んでいます

 ところが日本の子供たちどうでしょうか。世界には、学校に行きたくても行けない子供数多く存在するのに、日本の子供たちの中には学校に行けるのに行かずに、自分の部屋「テレビ・ゲーム機・携帯・コンピューター等」で一日楽しく過ごす者います

 そんな毎日の娯楽楽しみは、長く続きません

 すぐに飽きて、「孤独」という心の病に、日本の多くの子供たち蝕まれているのです。

 日本の子供たちは、物質的に恵まれれば、恵まれるほど心の平和から遠ざかって行くのです。

 反対に貧しさという苦しみの中にあっても、お互い助け合い、励まし合う子供たちは、逆境にも拘らず「同胞の悲惨さを糺すべく、夢を実現させよう」学校で目を輝かせながら、勉学に勤しんでいます。

 少なくとも夢を持ちにくい日本の子供たちよりかは「生きる喜び」持っているように見えます

 子供に夢を持たせることのできない民族は滅びの道を辿ります。

 では「どのようにするべきなのでしょうか。」  

 私にも分かりません。私に言えることは、「現在の日本の子供たちは、決して平和で、健全な社会に暮らしているとは思えない。」ということです。

  ただ教師にはできることがあります。「世界の偉大な魂」子供たち紹介することで「子供たちに夢を持たせること」できます

 本日紹介する人物は、アイルトン・セナという人物です。

 彼はブラジル大富豪の家庭生まれましたが父親跡を継ぐこと拒否し、自分の力で、一流のレーシングドライバーになった人物です。
「偉大な魂」なる多くの人物は、貧しい環境に育ったり、苦労した人達です。

 なぜなら人間を美しく育ててくれるのは悲しみ・苦しみ・試練だからです。

 日本人のように、物質的に恵まれた家庭に生まれた人偉大な魂」になるのはラクダが針の穴を通る」のと同じくらい難しいことなのかもしれません。

 その意味では日本の子供たちと同じような境遇居ても、「偉大な魂」になったアイルトン・セナは、希少価値があり、日本人の私達参考できることがたくさんあると思うのです。

 セナは、 世界的なレーシングドライバーとして、「音速の貴公子」と評されるほど、若くして名声も富も得た人物です。

 普通人間は、人生成功してしまうと、自分の人生に満足し、そこで努力しなくなり、裕福な自分に甘んじて贅沢な生活入り堕落していきます。

 しかもセナ裕福であっただけでなく若くて、美貌にも恵まれていて彼が望むものがあれば、世間で手に入らないものは何もない状況でした

 にもかかわらずセナは物質的に恵まれた人生を選ばず、最後まで、レーシングドライバーとしての世界の頂点目指して、勤勉さ努力惜しまず続けました


「私の仕事には、現状維持というものはありません私の人生は、急な坂道に居る人間同じで、真っ逆さまに下に落ちるか上り続けるしかないのです。与えられた一瞬一瞬努力するしかないのです。

 このセナのレーシングドライバーとしての覚悟人生の偉大さと素晴らしさ物語っています。

 セナは残念ながら、レース事故命を失いましたが、「家族の裕福な家族の財産を頼らず自分自身の力だけで、人生で成功した姿」をブラジルの国民今でも忘れていませ

 特に、サッカーのペレ氏同様「自分も彼のように努力を惜しまず人生で成功するのだ。」と、セナ自分が亡き後もブラジルの子供たち夢を与え続け永遠のヒーローとなっています

 その意味でサッカーのペレ氏と同様にアイルトン・セナ職業プロフェッショナル中の「プロ」と言っても過言ではありません

  なぜならプロとは、素晴らしい技術を見せるのがプロではなく子供たちに「あのプロの人のようになりたい」夢を持たせて努力することの大切さを教えるのが「真のプロ」だからです。

 

 さてセナが活躍した時代日本人特に日本企業には、セナと同様に勤勉さ努力すること」の大切さ理解多くの日本企業戦士たちは、「努力を惜しまない勤勉さ」保持していました。

 しかし現代の日本・日本企業は、「勤勉さ」を失い努力すること美徳忘れをして、お金を儲けること奔走したり、誤魔化して儲けようとしたりするものも居ます。

 日本人は、努力することの大切さを忘れてしまったようです

 日本は現在クール・ジャパンと言われ、世界からチヤホヤされています

 しかしセナの時代に「世界から恐れられた日本人の、努力を惜しまない姿勢勤勉さ」を、日本人はより大切にすべきだというのが私の持論です。

 

 最後に 若い皆さんへ

 どうか、夢を持ってくださいあなた方の能力は、100パーセント無限です。

 確かに「飽食の時代日本では、物質的に恵まれ過ぎて、夢が持ちにくいかもしれません。しかし、日本を取り巻く情況少し違って来ています

 原発事故による半永久的な放射能汚染で、多くの日本人が故郷に帰れずにいます

 コロナウィルスなどの感染病、また、頻繁に起こる「自然災害による、津波・洪水・大雨・土砂災害」などによって、多くの同胞苦しんでいます

 日本はあなたの出番を待っています。

日本には、放射能除去装置」を発明する人物が必要です。

 またあらゆる感染病にそれぞれワクチンを開発する人物が必要です。 

 どんな津波来ても安全で強い地域計画を立案する人物が必要です。

 どれだけ豪雨になっても、洪水・土砂災害が起こらないような地域造りのリーダーが必要です。

 貴方さえ、その気になれば、「私利私欲だけでない、社会に役立つ夢を持つことができます。

 また、日本人の努力を惜しまない勤勉さを貴方が取り戻すなら、夢は実現します

 なぜなら、「あなた方の能力は100パーセント無限」だからです

          これが本日私が伝えたいメッセージです。

 

 

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アウシュヴィッツの聖者 コルベ神父

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               アンネのバラ

 

「人物紹介」
 コルベ神父日本の長崎にも滞在したこともある人です。ポーランド生まれのカトリックの司祭で、第2次世界大戦中母国ポーランドのあるヨーロッパで、その当時、勢力を伸ばしつつあったドイツ・ナチス「非人道的行為」に反抗し、人道的立場を貫くために、アウシュヴィッツユダヤ人捕虜収容所投獄された人物です。


「収容所の中での出来事」

  さて収容所には鉄の規律・掟」がありました。

 即ち「もし、同じ獄舎の囚人脱獄することがあるなら、囚人を10人選び出しその10人を餓死刑に処するというものでした。

 
  ある朝看守が見回ったところ一人の囚人が脱獄していることが分かりました

  直ぐに収容所の所長は、同じ獄舎の囚人を集め、「見せしめ」のために10人選び出し、「餓死刑」に処することを決めました。

 選び出された10人は、顔を青ざめさせ、中にはあぁ、私が死ねば、残された妻や幼い子供たちはどうなるのだろうかあぁ、死にたくない泣き崩れる男もいました。

 とその時突然他の囚人たちの集団の後ろの方から「私がその人の代わりに、刑をうけましょう」叫ぶ人物がいました。この人こそマキシミリアン・コルベ神父です。

 

「伝えたいこと」
 私は、コルベ神父の考えると、必ず「挑戦」をうけます。挑戦受けるとは「もし、私かコルベ神父の立場に居るならどのようにするか」ということです。

 私はコルベ神父のことを真底尊敬しています。

 しかし、彼が「他人の命を救うために自分の命を捨てた」から尊敬するわけではありません

 なぜなら「友のために命を投げだす」というのは、聖書の教えであり、その教えの基殉教していったクリスチャンは星の数ほど居ます。

 崇高な行為ですが、それだけでは、「石のような冷たい心」しか持たない私感動させるに至りません。


 ではどこに感銘をうけるのでしょうか。2つあります。
 一つ目は、アウシュヴィッツという捕虜収容所の恐ろしい環境」です。極限状態の飢えと寒さ寝床言えば板にを引いた一人用ベッド何人も寝せる。人が人間として扱われず、家畜のように生活させられる場所です。
 「貧すれば鈍する」というものがあります。人間は死と背中合わせ極限状態に置かれると、「自分のことしか考えなくなるもの」です。

 そんな、環境にあっても、「クリスチャンとして、成すべきことがまだできる」というコルベ神父の信念は、私には考えられないことです。

 2つ目「餓死刑」という刑の恐ろしさにあります。人間は食べずにいても、ある程度「飢え」は我慢できる動物です。しかし、「渇き」については、人間は我慢できないのです。

 人間は水が与えられないと血管が枯れてくるそうです。血管枯れ体が火照る痛みは、耐えられずに、死ぬ前人間を半狂乱にしてしまう」と言われています。

 現にこの刑がアウシュヴィッツで執行されると、「受刑者の居る地下牢からは、野獣のような、苦しみの叫びが、夜中絶えなかった。」記録に残っています。

 このような中にあってもコルベ神父は、他の受刑者を励まし、死んでいく者のために、「とりなしの祈り」を施しました。

 最後は、生き残ったのはコルベ神父ただ独りになったところで、収容所の所長も根負けして、「早く死なせてやれ」ということで「死の注射」を受け、コルベ神父は亡くなりました。

 それでも「彼の顔は、空のある一点を見つめ、光り輝いていた。」といことが、後にナチス死体処理班の者の証言明らかになっています。

  

「学んでほしいこと」

 皆さんはコルベ神父のお話知って「ドイツ人・ナチスの人たちなんと残酷なのか」と思うかもしれません。

 しかし、ここで学んで欲しいことがあります。

それは、ドイツ・ナチスの兵士たちも「私達日本人と何ら変わらない普通の人たち」なのです。

 アウシュヴィッツの兵士たちは、戦争中であっても、日曜日に訪問して来る家族には「良き夫であり、優しい父親」でした。

 また毎週「クラシックの音楽会」将校たち開催していたそうです。

 私達と変わらない普通の人が、ただ戦争と言う名のもとに理性をかなぐり捨て悪魔のような存在になったのだということを学んで欲しいのです。

 しかし一方でマキシミリアン・コルベ神父のように神に似た崇高な人間にも、私達は成れるのです。

 では同じ人間なのにどうして両者の間に違いが出たのでしょう

 それは、「心の内面の問題です。良心の持ち方です。」
 では、私たちはどうすればよいのでしょうか?

 

 お願い

 毎日20秒で良いです目をつぶって自分の心の中のぞき込み「自分の生き方これ正しいのか。自答してください。

 そうするならこの毎日の黙想は、日々、皆さんを精神的に強め、将来、皆さんの宝となるでしょう。

 

 

国際人としてのマザーテレサに学ぶこと

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    アンネのバラ 嵯峨野教会 京都

 

人物紹介 

20世紀に現れた「偉大な魂」の一人である。

 マザーテレサは、宗教の争い、民族の争いの絶えないコソボで生まれる。幼い頃から、民族・文化の違いが生み出す、「宗教戦争・民族紛争」の悲惨さを見聞していた。

 アイルランドシスターとして修養した後、インドに渡り修道院付属の学校校長の任に就く。

 その後、インドの惨状を見かねたテレサは、良心の自由に従って、ローマ法王の許可を得た後、修道院を出る。インドの街に於いて、「貧しい人々のために奉仕活動」に献身した。自分の教え子たちの協力を得たマザーテレサは、「死を待つ人々の家」を開き、道端で死にゆく人達を保護し、他界していく「貧しい人々」人権を守り、その見送った

 マザーテレサは、自分のために使う時間を惜しみなく、「貧しい人たち」のために使い児童養護施設を開設し、「親から捨てられた子供たちの面倒を見るだけでなく、子供たちたちに生まれてきたことの意義・喜びと使命感を与える。

 さらに、「その当時、社会から村八分にされていたハンセン氏病患者たちの養護と就労に奔走する。」

 マザーテレサの惜しみない「貧しい人々のためへの献身の姿」は、世界に感動を与え、その功績に、世界はノーベル平和賞」をマザーテレサに授与した。

 

マザーテレサの成功の秘訣

 マザーテレサは幼いころから、「文化・宗教の違いが生み出す残酷な争い・戦争」を見聞していたので、文化の誇りと誇りが衝突する「悲しさ」宗教の教義と教義がぶつかり合う「残酷さ」を身に染みて熟知していた女性です。

 それ故に自然と「国際社会」何が大切か本能的嗅ぎ分ける能力が備わっていたのだと考えられます。

 国際人と呼ばれる人は、自分の文化を熟知し、相手の文化についても充分理解していなければなりません。 

 しかも文化に優劣をつけてはいけないということを理解していなければなりません。

 マザーテレサは、自分の故郷の悲惨な状態を通して、国際人としての素養自然と身につけていたのだということです。

 

「文化に優劣をつけない」とは?

 国際人の素養とは、自分のしっかりとしたアイデンティティ(Identity)内面しかも、その自分のアイデンティティという「自分の城」相手の文化・習慣を尊重して受け入れる器量を持つということです。

 このことのできない、不器用な国があります。先進国でありながら、「白人至上主義」のために、自国の文化がNO.1・ナンバーワンと考えている国々です。

 例えば、この範疇にあるAというが、戦火にあるアフガニスタン学校を寄付したとします。

 A国の民主主義の文化では、「男女共学」が常識であり、自分たちの文化では、男女平等の理念から正しいことなのです。

 しかし、これは、イスラム教徒の多いアフガニスタンの人たちにとっては、「自国の文化に土足で踏みにじられた」という感情をたきつけることにしかならないのです。

 これは、プライドだけの問題だけではありません。例えば男女共学の学校無理やり参加させられた、イスラム教女子生徒の中には男子生徒からの好奇な目見られるだけで私たち日本人の女子生徒が、男子生徒から暴力を受けた時と同じくらいの衝撃」受けて精神的に傷つく生徒も存在するということに気付いて欲しいのです。

 ですから、Aという国その土地の人々に憎しみと怒りしか与えることしかできず、お金をどれだけ出して援助しても国際社会では成功しないのです。

 

 「文化に優劣をつけない」ということの難しさ

 このような失敗を重ねてしまう「白人至上主義の国々」の人は、第一に相手の文化を理解するということに努力不足なのです。

 と同時に、自分たちの文化がナンバーワンだという自負・傲慢が、「相手のことを思いやるという想像力」を不足させているのです。

 「文化に優劣をつけない」というのは、私たち日本人にとっても難しいことです。

 なぜなら、時には、「先進国の真理である人権の問題と相手の持つ文化が衝突することがあるからです

 

国際人として、どのように行動すべなの?

 相手の文化と私たちの社会で言う人権侵害とが衝突する時があります。

 たとえば「インドのカースト制度」・「イスラム諸国の男尊女卑」などがその範疇です。

 このような場合、どのように私たちは国際人として、行動すべきなのでしょうか。「人権侵害はどのような場合も許してはいけない」という考え方もあるかもしれません。

 しかし国際人は、もう少し違う視点からこの問題に対処すべきだと私は思います。

 それは、「どれだけ人権にかかわる事柄であっても、そこには、相手の文化の伝統長い歴史があり、よそ者が、白黒の判断を早計に下すべきでない。」という視点です。

では、「どのように行動すべきか。」

 その秘訣が、マザーテレサの行動」にあります。

 彼女キリスト教で、しっかりしたアイデンティテの城・心の拠り所自分の内面に持っていました

  そして、どれだけ自分のアイデンティティの中では譲れない正義存在していたとしても相手の文化・宗教を尊重して、自分のアイデンティティの城中に招く器量マザーテレサにはありました。

 ですから、彼女は「死を待つ人々の家」において、臨床にあるイスラム教徒に、コーランを読んで聞かせヒンズー教には「ガンジス河の聖なる水」を灌いで死者を葬りました

 

ここにマザーテレサが国際社会で成功した秘訣があります。

 優秀な皆さんは将来海外で働くことになるでしょう。さもなければ、日本の将来は存在しません

 これからの国際社会では皆さんもそれぞれが日本大使と同じ役割を果たさなければなりません

 そんな皆さんが国際社会に於いてどのように行動するのか進むのか、迷った時ぜひ、マザーテレサのことを思い出してください。

 

最後に私が心の糧としているマザーの言葉紹介して終わりにします。

「世界には、7億以上の子供たちが飢え・病・戦争によって、死の危機にあります。その事実から目を逸らそうとする人こそが、愛から最も遠い存在なのです。愛の反対は無関心なのです。」

 

 

 

 

 

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国際人としての中村哲氏に学ぶこと

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  神との約束 「虹」 珍しい二重の虹 

         京都植物園あたりの加茂川

 

 中村哲は、1984より、アフガニスタンパキスタンの人々に、ペシャワールに於いて医療活動に従事して来た人物です。

 彼の医療活動に於いて 一番彼を悩ませたのは、イスラム教徒との習慣・文化の違いでした。

 特にイスラム教徒の女性を診察する時に、困難を極めました。

 ペシャワール会の活動が大きくなってからは、日本から女性看護師派遣し、イスラム教徒の女性患者を診断できましたが、それまでは、イスラム教徒の女性見る時には、本当にたいへんでした。

 イスラム教徒の女性は、夫と父親以外の男性には、肌を見せることができないからです。

 白人至上主義の西洋からの医者ならば自分たちの文化が絶対で一番正しいと思っていますから、イスラムの女性見る時にも、「命に関わること」と一括し、白人の女性を診断するのと同じ方法しか行わないでしょう。

 「白人至上主義」の考え方が、「他の民族の人たちの感情を想像することの大切さ」を理解することを妨げてしまっているのようです。

 イスラム教徒の女性にとって、肌を家族以外の男性に曝すことは、日本人の女性にとって、「性的暴力」受けたのと同じくらい、「精神的打撃を与える」ということが、白人至上主義の国々の人々には理解できないのです。

 

 イスラム社会で医者として、貢献することになった中村哲は、そんな白人至上主義の医師とはまるで違っていました

 哲氏は、イスラムの女性を診断する時は、必ず、カーテンを通して、患者と接し、その夫、もしくは、父親を介して診察を行いました。

 中村哲は、「日本人であり、クリスチャンであるという土台しっかりしたアイデンティティの城」自分の心の内に打ち立てていました

 と同時に「文化に優劣をつけないで、相手の習慣・宗教を尊重し、自分のアイデンティティの城内に受け入れるだけの器量」がありました。

 ここに、中村哲氏が「国際人」として、アフガニスタンで活躍できた秘訣があります。

 哲氏は、海外赴任した時に、「お互い違うんだ」というところから出発し、相手の文化を尊重し、しかも、自分の心の中の城を失うことなく、相手の習慣・宗教を自分の心の城に迎え入れ、尊重することができたのです。

 さらに哲氏の素晴らしい所は、「違いからの出発」から、「自由・平等・愛・平和・友情」など考え方に少しの違いがあるとしてもどの民族も憧れる普遍的価値について、現地の人々と語り合い、尊敬の念までも勝ち取ることができたです。

 昨年、残念で悲しいことですが、中村哲は、アフガニスタンの地で暗殺されました。アフガニスタンの復興と国が豊かになること」を目指していた哲氏を、アフガニスタンの復興を望まないどこかの集団、もしくは、どこかの国が暗殺してしまったのです。

 「本当に偉大な人」は、全員から好かれ、尊敬されるということは絶対にありません

「本当に偉大な人」は、賛同者からは、「命を投げ打っても良い」と思われるほど崇拝され、敵対者からは、殺したいと思われるほど敵視される人のことなのです

 この意味で中村哲氏は、20世紀が生んだ最後の「偉大な魂」の一人だと考えられます。

 

 これから海外に赴任して国際人として活躍しようとしている、また、したいと願っている人たちは、中村哲からのこを学べる確信しています。

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