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濁流から立ち直る加茂川 京 都
私が、生活指導主任であった頃、よく保護者の方々から、次のような質問をよくされたものでした。「お宅の学校には、いじめは無いでしょうね。」この質問の裏側の意味は、「いじめがない学校が良い学校である。」という意味があります。本当にそうでしょうか。私はこれが大きな誤解だと思っています。
全ての人間は、キリスト教で言うところの「原罪」、仏教で言うところの「業」を持っています。人間の集まる所には、必ず争いが起き、「嫌がらせ行為」や「いじめ」も少なからずどこにでも存在するものです。学校も人の集まる所です。
「いじめ」が無いと答える学校には、2つのタイプがあります。一つは、「生徒に無関心なため、あるいは、責任逃れのために、いじめは無い」と主張する学校です。このような学校は、生徒を自殺まで追い込んでしまう可能性のある恐ろしい学校です。
もう一つのタイプの学校は、「規則で生徒を雁字搦めに縛り、学校を無菌状態の温室にしてしまっている学校です。」こんなタイプの学校を卒業しても、マニュアル通りにしか動けない人間になり、社会に出た時に、人間関係を上手くやっていけない人に成ってしまうだけです。
社会にでれば、必ず、仕事をする「集団」に所属しなければなりません。集団には、必ず自分が苦手な先輩が居たり、主義主張が合わない同僚が居たり、自分に攻撃的な人が居たりするものです。
学校時代では、「あの人嫌い。だから話さない。」とか「あの人が居るからクラブやめる」とか可能ですが、社会に出て、このような考え方は通用しないばかりか、生きて行けません。
本当の良い学校は、
生徒に人間関係を学ばせ、「いじめる生徒」と「いじめられる生徒」双方をサポート・フィードバックし、人間として「正しいこと」を教えてくれる学校が「真の学校」です。
子供は、「いじめる側」に居ても、「いじめられる側」に居てもかまわないのです。そこから、子供たちは、「失敗を繰り返して、人との付き合う技術を学ぶ」のです。技術を習得するには、失敗がつきものです。それどころか、失敗しなければ、技術の習得はあり得ません。
いじめについて少し説明しましょう。
例えば、今、クラスの中に、太郎君、二郎君、三郎君、四郎君の仲良し4人グループが存在したとします。
その中で、太郎君は、ユニークですが、少しわがままな所がありました。後の3人が、それぞれ、「あなたのわがまま直した方がいいよ。直るまで俺たちのグループには来るなよな。」と太郎君は3人から村八分にされました。
太郎君は精神的打撃を受けて、次の日から学校に行けなくなりました。いわゆる「登校拒否」です。
これは、いじめの事例になります。他の3人にどれだけ正しい言い分があっても、太郎君が「いじめ」だと感じれば、それは「いじめ」なのです。
さて、太郎君の保護者には、これが「いじめ」だと理解するのは、さほど、難しくはありません。
問題は、他の3人の保護者です。現代の保護者の多くは、「息子たちは、太郎君の悪いところを糺そうとしただけです。」と100パーセント自分の息子の正当性を支持し、3人を指導した場合、学校へ怒鳴り込んで来られることが多々あります。
現代の親たちは、自分の子どの言うことを100パーセント信じて、学校と対決姿勢を直ぐに取られます。
昔は、教師は親からまず信頼されていて、教育に専念することができました。
「先生」という称号が与えられるほど、日本に於いて、教師は社会的地位が高い、尊敬される職業でした。
しかし、現在は、親からも、社会からも信頼を失っているようです。
この事は、社会、保護者、教師の三者のいずれにとっても残念なことです。
しかし、一番残念なことは、「子供たちの成長」が阻まれることです。
先ほどの4人の生徒たちを例に説明します。
子供というのは、自分の身を守るために、うそをつくとは言わないまでも、事実を自分に都合の良いように誇張します。
そして、保護者は当然100パーセント自分の子供の言い分をそれぞれ信じて、保護者も相手の保護者といがみ合います。
子供も親も関係が悪い方向にこじれるだけで、子供の成長はとても見込めません。
解決策
子供というのは、「自分の身を守るために事実を誇張するものだ」ということを親は理解していなければなりません。
親は「子供の説明に100パーセント正しいということはない」ということを頭に入れておく必要があるのです。
勿論、自分の子供の言うことを理解しようとする姿勢は絶対に必要です。
しかし子供の言うことは、全部正しいとは、限らないので、
まずは教師を信頼して、担任・生活指導主任に相談・事実把握をしてから行動するべきです。
先ほども述べましたように、子供のすることに、すべてが正しいということはあり得ません。4人の間に「いじめ」と判定される事件が起きた背景には、それぞれの生徒に良い所、悪い所があるはずです。
良い所は保護者が褒めたり、慰めてあげればよいのですが、悪い所・失敗したところは、教師と連携して、それぞれの親がそれぞれの子供に指摘し、子供に理解させねばなりません。
これができなければ、子供たちが失敗を将来の人生に役立てることはできません。
担任は、和解の儀式を4人のためにしてあげた後、村八分にされた太郎君には、他のグループの友達を見つけてあげるか、信頼できる他の生徒を友人として見つけてあげればよいのです。
和解の儀式の時点で、4人の子供たちの中に、不服があるものが居たとしても、時が生徒たちを癒してくれます。
子供というものは、直ぐに体も心も成長し、大人の裁定を理解します。
私の経験では、「雨降って地固まる」の諺通り、4人の子供たちは、成長してから、親友に戻る可能性が高いのです。
教師の皆さんへ、
人間関係が拗れて事件が何か起きた場合、双方に至らない点があるから事件は発生します。その点をそれぞれの生徒・保護者に説明してあげるのが担任の役目です。
事件が発覚すれば、まず、迅速に情報収集です。
正確に把握するためには、関係者だけでなく、周りの生徒たちから、情報を得なければなりません。
その時に必要なのは、「日常の人間関係の構築」と「信頼」です。「信頼」は情報を明かしてくれた生徒の人権を守るために、「秘密厳守」が必要になります。明かしてくれた生徒が誰なのか、関係者全員に分からないように、ダミーの情報源を確保しなければなりません。
「仲直りの儀式」も重要です。たとえ、その時点で裁定に不服な者がいたとしても、「時」とそれに伴う「子供の成長」がいつか将来、大人の裁定の正しさを子供に理解させるでしょう。
最後に私が4月の新クラスで全員のクラスの生徒に公言して、注意していたことを紹介いたします。
「人間には、相性もありますし、好き嫌いもあります。これはどうしようもないものです。ですから、クラスにこれだけの生徒が居れば、中には、苦手な人が居ますし、相性の合わない人も必ず存在します。
しかし、あなた方は1年間、クラスメイトとして、みんなで力を合わせて仕事をしていかなければなりません。
ここで、担任からひとつだけお願いです。自分の苦手な人と親友になれとは言いません。
けれども、一緒に仕事ができる人間関係を保つために、自分が嫌っているということを、相手に悟らせない、「社交的な関係」を保てるように、生活をしてください。
それが大人の付き合い方です。
相手が嫌いだと言って、しやべらない、嫌がらせをするのは、子供・ガキのすることです。
この事さえ、1年間守ってくれれば、貴方が一生懸命にやったことで、どんな失敗をしても、担任はあなたをサポートします。」
若い先生方に参考になれば幸いです。