京都 鴨川になる直前の加茂川
皆さんは「死の恐怖に捕りつかれたこと」はありませんか。私は経験があり、鮮烈に脳裏に残っております。
私は幼い頃、祖母を「胃がん」で亡くしました。死期が近づいた時の祖母の顔は、私の知っている祖母ではなく、骨と皮だけに変わり果てた祖母でした。幼い私は祖母の顔が恐ろしくなり、近づくことさえできませんでした。
祖母が亡くなり、お葬式の日、私は愚かにも火葬場まで付いて行きました。
当時の火葬場は、近代的ではなく、棺を焼く時の釜の轟音が60年経った今でも、私の脳裏から離れません。
私はその日から、「死の恐怖」に付きまとわれる者となりました。
楽しいことをしていても、突然「死の恐怖」に駆られるのです。何処へ逃げても恐怖は付きまとうのです。
私は精神的に異常をきたすほどになっていました。
私の母は私の異変に気付き、私をキリスト教の教会につれていきました。
キリスト教の教義にある「来世」の概念と時の経過が私を「死の恐怖」から救ってくれたようです。
死の恐怖から逃れる方法はいくつかあると思いますが、まず「死」ということを色々な側面から研究することが役に立つようです。
まず、学んでおくことは、自殺の概念が日本と西洋では全く違うということを学びましょう。
日本では「切腹」など自分の命を絶つことは、文化の一部として、敬意を払われるところがありますが、西洋では、「自分で自分の命を絶つ」ことは、「他人を殺すこと」と同じに扱われます。
ですから、キリスト教の国で自殺未遂すると、他の人を殺そうとする「殺人未遂」と同じ罪になり、警察に逮捕される国が 今でも存在します。
理由は、自分の命も神が与えたものであり、自分のものではなく、他の人のために、神のために使う命だからです。
そんなキリスト教の教義の中で、一つだけ例外、「自分の命を犠牲にして良い場合」があります。
それは、「自分の命を犠牲にしなければ、他の人の命を救う方法が他にない場合のみ」、自分の命を投げ出すことが許されます。
キリスト教の教義では、これは「最も崇高な行為」として扱われ、「殉教」と呼ばれます。
テロリストたちもよく「殉教」という言葉を口にします。しかし、テロリストの「殉教」とキリスト教の「殉教」とでは天地雲泥の差があることを、心に留めてください。
即ち、キリスト教では、「命を犠牲にして、他の人の命を救います。」
しかし、テロリスト集団は「命を投げ出して、他の人の命を奪う」のです。
天国と地獄の違いなのです。
この様に「死」に対して思考を深め、立ち向かうことは、「死の恐怖」に打ち勝つための一つの対処方法でもあります。
私の独断ですが、大人と子供の境目は、死に対して何らかの解決策を持って生活しているのが大人で、死を考えないように、無知で逃げの姿勢で暮らしているのが子供だと思うのです。
対処法
私のように、「神様・来世」を信じて死の恐怖に打ち勝つのも一つの方法ですが、神様がまだ苦手な方にご紹介したい人物が居ます。
「徒然草」の著者、吉田兼好です。
彼は、「人間の命は、短いから美しいのである。だから、短い一生をどのように使うかが大切である。短い故に、一日、一日を精一杯生きることが大切である。」と言うのです
ある哲学者が、「人間は毎日自分の可能性を失って行く動物である。」と言っています。
そして、「毎日可能性を失って、ある人生の分岐点で、残された可能性から自分の進む道を選択しなければならない。」というのです。
ならば、毎日努力をし、将来に可能性を少しでも多く残そうではありませんか。
若い人たちの可能性は100%です。何でも出来ます。どんな職業にもつけるのです。
最も効果的な対処法
最後に最も効果的な方法をご紹介します。それは、「恋をすることです。」
年齢は関係ありません。「愛する人が出来れば、自分の命を掛けてでも、愛する人を守ろう、サポートしよう」という勇気が湧いてきます。
「愛は死よりも強し」です。だから、死の恐怖に打ち勝つことができるのです。
クリスチャンが自分を犠牲にしてまでも、友を救うという崇高なことができるのは、イエスキリストという「恋人」が居るからこそ、死の恐怖に打ち勝つことが出来るのです。