アウシュヴィッツの聖者 コルベ神父

f:id:shalom417:20200712171935j:plain

               アンネのバラ

 

「人物紹介」
 コルベ神父日本の長崎にも滞在したこともある人です。ポーランド生まれのカトリックの司祭で、第2次世界大戦中母国ポーランドのあるヨーロッパで、その当時、勢力を伸ばしつつあったドイツ・ナチス「非人道的行為」に反抗し、人道的立場を貫くために、アウシュヴィッツユダヤ人捕虜収容所投獄された人物です。


「収容所の中での出来事」

  さて収容所には鉄の規律・掟」がありました。

 即ち「もし、同じ獄舎の囚人脱獄することがあるなら、囚人を10人選び出しその10人を餓死刑に処するというものでした。

 
  ある朝看守が見回ったところ一人の囚人が脱獄していることが分かりました

  直ぐに収容所の所長は、同じ獄舎の囚人を集め、「見せしめ」のために10人選び出し、「餓死刑」に処することを決めました。

 選び出された10人は、顔を青ざめさせ、中にはあぁ、私が死ねば、残された妻や幼い子供たちはどうなるのだろうかあぁ、死にたくない泣き崩れる男もいました。

 とその時突然他の囚人たちの集団の後ろの方から「私がその人の代わりに、刑をうけましょう」叫ぶ人物がいました。この人こそマキシミリアン・コルベ神父です。

 

「伝えたいこと」
 私は、コルベ神父の考えると、必ず「挑戦」をうけます。挑戦受けるとは「もし、私かコルベ神父の立場に居るならどのようにするか」ということです。

 私はコルベ神父のことを真底尊敬しています。

 しかし、彼が「他人の命を救うために自分の命を捨てた」から尊敬するわけではありません

 なぜなら「友のために命を投げだす」というのは、聖書の教えであり、その教えの基殉教していったクリスチャンは星の数ほど居ます。

 崇高な行為ですが、それだけでは、「石のような冷たい心」しか持たない私感動させるに至りません。


 ではどこに感銘をうけるのでしょうか。2つあります。
 一つ目は、アウシュヴィッツという捕虜収容所の恐ろしい環境」です。極限状態の飢えと寒さ寝床言えば板にを引いた一人用ベッド何人も寝せる。人が人間として扱われず、家畜のように生活させられる場所です。
 「貧すれば鈍する」というものがあります。人間は死と背中合わせ極限状態に置かれると、「自分のことしか考えなくなるもの」です。

 そんな、環境にあっても、「クリスチャンとして、成すべきことがまだできる」というコルベ神父の信念は、私には考えられないことです。

 2つ目「餓死刑」という刑の恐ろしさにあります。人間は食べずにいても、ある程度「飢え」は我慢できる動物です。しかし、「渇き」については、人間は我慢できないのです。

 人間は水が与えられないと血管が枯れてくるそうです。血管枯れ体が火照る痛みは、耐えられずに、死ぬ前人間を半狂乱にしてしまう」と言われています。

 現にこの刑がアウシュヴィッツで執行されると、「受刑者の居る地下牢からは、野獣のような、苦しみの叫びが、夜中絶えなかった。」記録に残っています。

 このような中にあってもコルベ神父は、他の受刑者を励まし、死んでいく者のために、「とりなしの祈り」を施しました。

 最後は、生き残ったのはコルベ神父ただ独りになったところで、収容所の所長も根負けして、「早く死なせてやれ」ということで「死の注射」を受け、コルベ神父は亡くなりました。

 それでも「彼の顔は、空のある一点を見つめ、光り輝いていた。」といことが、後にナチス死体処理班の者の証言明らかになっています。

  

「学んでほしいこと」

 皆さんはコルベ神父のお話知って「ドイツ人・ナチスの人たちなんと残酷なのか」と思うかもしれません。

 しかし、ここで学んで欲しいことがあります。

それは、ドイツ・ナチスの兵士たちも「私達日本人と何ら変わらない普通の人たち」なのです。

 アウシュヴィッツの兵士たちは、戦争中であっても、日曜日に訪問して来る家族には「良き夫であり、優しい父親」でした。

 また毎週「クラシックの音楽会」将校たち開催していたそうです。

 私達と変わらない普通の人が、ただ戦争と言う名のもとに理性をかなぐり捨て悪魔のような存在になったのだということを学んで欲しいのです。

 しかし一方でマキシミリアン・コルベ神父のように神に似た崇高な人間にも、私達は成れるのです。

 では同じ人間なのにどうして両者の間に違いが出たのでしょう

 それは、「心の内面の問題です。良心の持ち方です。」
 では、私たちはどうすればよいのでしょうか?

 

 お願い

 毎日20秒で良いです目をつぶって自分の心の中のぞき込み「自分の生き方これ正しいのか。自答してください。

 そうするならこの毎日の黙想は、日々、皆さんを精神的に強め、将来、皆さんの宝となるでしょう。