ベ ル サ イ ユ 宮 殿 1978年
正月二日に見た夢では、私は、ローマ法王になっていました。その幻を文字にしてみました。 ローマ法王の私は、市民を前に、コロナ禍の中、励ましのメッセージを語っています。
本年も、神様の励ましが、貴方方の上にありますように。そして、勇気を持って、コロナ禍という大きな試練に立ち向かおうではありませんか。
さて、コロナ禍や多くの天変地異、災害は、神様が人間に与える試練でしょうか。
私は違うと断言いたします。
この地上で悲しい災害は、「自然の摂理」、すなわち、「地球の自由意志だ」と、私は考えます。
人間を筆頭に、生きるもの全てには、意志があります。
神は、生きるものの意志を尊重して、自由意志を生き物にお与えになりました。
そして、地球もまた、熱いマグマを循環させる生き物であって、神は、「地球が天変地異を起こす自由意志」をも尊重されるのです。
人間への警告のための、地球の自由意志の行使によって、尊い私たちの友の命が奪われているのです。
ではなぜ、神は私たちの友の命が奪われるようなことを、地球にお許しなるのでしょうか。
神の創造物である人間には、地球の起こす自然の摂理が、どれたけ非情で悲しい出来事であっても、それを推し量る術はありません。
しかし、人類の歴史を紐解くならば、地球の引き起こす災いに、人間が闘い、挑むことで、自然の摂理から学び、また、与えられた禍という試練を乗り越えることによって、多くの事を人類は学んできたことが分かります。
ここに、神の意志、御心があるのかもしれません。
聖書は語っています。
「神は、私たちが堪えられないような試練をお与えになることはない。」と。
コロナ禍を筆頭に、原発事故による放射能汚染など、人類が危機に瀕する試練は、自然の摂理でしょうか、それとも、人災でしょうか。どちらかという事は、人事では推し量れない「神のみぞ知る事項」なのかもしれません。
しかし、断言できることがあります。
これらの出来事には、「人類が自然・地球を支配しようとする傲慢さから、全ての禍が始まっている」と言う事です。
人類が完全支配を試みた結果、人類は、自然が滅亡する瀬戸際まで、地球を追い込んでいるのです。
今、地球上で起きている多くの禍は、「このままでは、地球は滅亡する、地球号という宇宙船は沈没してしまう」と言う、自然の摂理からの、地球からの警告なのです。
さぁ、今こそ、「人間が地球の支配者である。」という傲慢な心を捨て、全ての神の創造物とともに生きることを最優先しましょう。私達人類が環境破壊してきたことを、謙虚に認めるところから、コロナウイルスや放射能汚染との戦いが始まります。
地球の危機を乗り越える秘訣は、「人類が謙虚になるところ」にあるのです。
まずは、コロナ禍からの脱却が最重要課題です。
ソーシャルディスタンスを全ての人が守るために、「マスクの着用」が重要です。
信徒の中には、「祈れば神様が守ってくださるから、大丈夫だ。」という人もいますが、これもまた、「傲慢の一つの形です。」
どうして、自分はコロナウィルスに感染しないことが、「神の御心だ」と分かるのでしょうか、神の御心は奥深いものです。自分がコロナウィルスに感染しないと思い込むこと自身が、一つの過信・傲慢なのです。
祈りは信仰者にとって、最も大切な行いですが、祈りだけでは、不十分です。旧約の時代考え方ですが、昔、モーセの時代、エジプト軍に紅海まで、ユダヤの人々が追い込まれた時、モーセが祈ったから、紅海の海が二つに割れ、逃げ道が開かれたのではありません。モーセが祈り、それを信じたモーセの民が海に一歩を踏み出したので、奇跡が起こり、紅海は割れ、道が開かれたのです。
神は、自ら一歩を踏み出す人間に答えてくださるお方なのです。
どんなに、身分の高い宗教家であっても、「自分が祈ったから大丈夫だ。」とか、「自分は神様から守られる。」と過信する人は、傲慢のために、反って、コロナウィルスの餌食になる人たちです。
信仰者としては、失格です。
祈りの基本は、「ゲッセマネでのイエスキリストの祈り」が基本です。
彼は、罪の盃を飲むことになる十字架を避けたいと父に祈りましたが、最後は、「父である神の御心のままに」と祈ったのです。
この姿勢がキリスト教徒の「祈りの基本」です。
さぁ、今こそ、モーセの時代の人のように、最初の一歩を踏み出す人間となりましょう。コロナウィルスと戦う一歩を踏み出しましょう。
一人一人が、できることをしましょう。まず、三蜜を避け、ソーシャルディスタンスを守りましょう。効果があるマスク着用を推進しましょう。
神は、まず一歩を踏み出せば、自ら助ける者に答えくださる方です。一歩を踏み出せば、必ずや、コロナウィルスとの戦いに打ち勝つ日が到来します。
神は、私達が耐えられない試練を、私たちに与えることはありません。
勝利の日目指して、最初の一歩を踏み出し、戦いましょう。
雄鶏が鳴き、目覚めた私は、見た「第二の夢・幻」をしたためます。