ア ン ネ の バ ラ 嵯峨野教会 京 都
40年以上前の出来事です。私が学生時代、ヨーロッパを独りで放浪した時の出来事です。
ドイツのミュンヘンで、とある映画館に入場しました。そこで、見た光景は、今でも夢にでてくるほど鮮烈なものでした。映画館が障がい者の人々のために、完全なバリアフリー設計されている事に驚かされたのです。
日本で暮らして、現在、映画館にも、しばしば通う私ですが、当時のドイツ映画館には、完全バリアフリーの点で、日本の最新映画館は、今でも、それに及びません。
理由は簡単です。社会福祉先進国のドイツと途上国日本では、「障がい者と健常者との理想の関わり方」の考え方が違うのです。
私は教師という職業に関わってきたにも拘わらず、「障がい者の方々と健常者が如何に関わり、暮らして行くか」について、長い間、多くの日本人と同じように、間違った考え方、「障がい者の方々が望む理想の社会」とは違う、誤った考え方を理想としていました。
即ち、私が思い描いていた「理想の障がい者の方々との健常者の関わり方」は、車いすに乗る障がい者の方を、健常者が補助して、全員で支え合う社会」でした。
しかし、ドイツなどの社会福祉先進国や障がい者の方々が理想とする社会は違うのです。
「車いす障がい者と健常者が並んで、平等に暮らせる社会」、これが理想なのです。
健常者が支え、補助しなければならない社会では不十分なのです。だから、いつまで時を経ても、日本は社会福祉先進国に追いつけないのです。
パラリンピックで、日本がたくさんのメダルを取るのを見て、テレビ報道の多くの解説者たちは、「日本は、他の先進国に負けない、障がい者にとって、良い環境の国だと証明出来た」と誤解していましたが、ヨーロッパの社会福祉先進国と、日本には50年以上の遅れが存在するのです。
パラリンピックは、日本人にそのことを教えてくれる良い機会でした。
さて、パラリンピックは、ドイツ系ユダヤ人、グッドマン氏の意向で始まりました。彼は、障がい者の方々がスポーツを通して、「できないことに目を向けて、マイナス思考になるのではなく、出来ることに目を向けるプラス思考で暮らして行くことの大切さ」を、障害を持つ方々に教えようとしました。
同時に、グッドマン氏は、健常者にも大切なメッセージを与えてくれている事を、私はパラリンピックを通して悟りました。
全ての人間には、心の中に「差別と偏見を生み出す源」を持っています。キリスト教ではこれを「原罪」と呼びます。
差別と偏見がどうしてう生まれるかというと、「無知な親が、自分の子供に、誤った考え方を植え付ける様に教えるから」なのです。差別と偏見は、人々の無知から生まれるのです。
パラリンピックを通して私たちは学びました。「障害を持つアスリートたちは、健常者の何倍もの苦労と努力をしなければ、栄冠を勝ち得ることはできなかったんだ」ということを、私たちは学びました。
私は、パラリンピックで活躍したアスリートたちを尊敬の念を持って見ることができました。
健常者である私ですら感動するわけですから、同じ障害を持つ子供たちは、パラリンピックで活躍したアスリートたちを見て、「自分にも出来るんだという希望・励まし」そして、出来ないことではなく、出来ることに目を向け進む「夢と勇気」を抱くことが出来たに違いありません。
健常者も、パラリンピックで活躍するアスリートの裏側に存在する困難と障壁に気付き、それを血のにじむような努力と訓練で乗り越え克服したアスリートたちの姿を見て、パラリンピックで活躍したアスリートたちに「尊敬の念」を持つことが出来たはずです。
この「尊敬の念」こそが、健常者たちに、障がい者の方々を理解させることに繋がるのです。
理解こそが、無知から生まれる「差別と偏見」を、人々の心から取り除いてくれる「魔法の薬」なのです。
この「魔法の薬」こそが、健常者の心の中に存在する障がい者に対する差別を無くしてくれるのです。それはまるで、「崩すのがほとんど不可能に見える大岩」を「少しずつ崩してくれる役割をする海の波」の様です。
ここに、「パラリンピックを開催する意義」があり、日本がコロナ禍にあっても、「強行する価値のあるものだった」と私は考えるのです。