日 没 岡 山
「教育の究極の役割は人類文明持続への貢献だ。加えて、わが国の命運もかかっている」
これは、野依良治氏の教育に関する名言です。日本の命運を左右し、支えるのは、まさに、「教育」です。
従って、どんな職業よりも、「志」が必要なのは、教師職と言っても過言ではないでしょう。
現在、日本は、あらゆる部門で、衰退の一途を辿っているようです。
これは、「日本の教育の在り方がどこか間違っているからだ」と私は考えています。
2つの側面から「日本の教育」を分析して観たいと思います。
まずは、教師採用の側面から考えましょう。さて、どの様な人物が教師に相応しいのでしょうか。
日本の文部科学省は、「賢くて、優秀な人物」を求めています。これは、教員採用試験内容を見れば明らかです。しかも、最悪なのは、日本の賢くて、優秀な人物とは、知識偏重で、暗記力の優れた人を、日本の文部科学省は採用している様です。これが、日本の子供達の成長には、マイナスなのです。
「暗記力に長けて、賢い人」と言うのは、苦労せずに、知識を修得してしまいます。これは、教師の質にとっては、害なのです。
なぜなら、その教師は、自分が簡単に習得できるのに、「子供達がなぜ習得出来ないのか」が理解できない、分からないからです。
教師にとって、「優秀」であることは、反って「負の資質」なのです。
教師に向いているのは、むしろ、不器用で、習得しなければならないことを、苦労して習得している人物です。
こうした人物が教師に相応しいのです。また、その様な教師は、生徒たちに、「自分にも出来る」と悟らせ、希望を与えることが出来るのです。
そして、その様な教師自身の存在が、生徒たちの励ましにもなり得るのです。
さらに、教師に求められる資質として、「徳の高さ、良心が心に充満している事」が大切です。
文科省の方々に心留め置いて欲しい事は、「知識豊富で優秀な人物と良心が充満した人物とは、正比例しない。むしろ、無関係な資質である。」と言うことです。
「健康な精神は、健康な肉体に宿る」というギリシャ時代からの格言があります。
スポーツを極めた人物の中には、「スポーツを通して、子供達と一緒に成長して行きたい」という志を持つ者がいます。この人達には、教師に適した人材が多いようです。
スポーツや芸術を極めた人物は、子供達からの信頼も得やすいので、中等教育教諭に向いています。なぜなら、努力して獲得したスポーツ・芸術に於ける技術力の高さは、生徒たちの信頼を勝ち取るのに大いに役立ちます。
「教育」というものは、教師と生徒の間に信頼が無ければ成り立たないものだからです。
日本の教育を衰退させているもう一つの原因は、教師を他の労働者と同様に、「時間」で管理しようとする姿勢です。
現在、文部科学省は、日教組や政権を狙う野党の圧力で、「三六協定」なるもので、教師を管理しようとしています。
私は予言しておきます。「三六協定」は必ず破綻します。
なぜなら、時間の制限は、教師と子供達の魂と魂のぶつかり合いと言う「教育のダイナミックス」を妨げるからです。
「三六協定」が施行されてから、学校の責任者、校長は、教師の過労死等で訴えられるのを恐れて、教師が、学校に残っている事さえ禁止する学校が増えています。
これでは、教育の本当の意味、「生徒の能力を引き出してあげること」は不可能です。
分かり易いように、中学や高等学校野球選手の例を挙げてみましょう。守備が下手で、上手くなりたい生徒、A君が居たとします。A君は、学校のクラブの教師コーチに頼んで、全体練習後、ノックをしてもらいます。毎日、夕闇でボールが見えなくなるまで、コーチにノックしてもらったお陰で、守備が上手くなり、努力する事の大切さを学び、勉学にも好影響を与え、著しい成長を遂げることができました。
この類の経験をして、成長して、プロ選手になったり、素晴らしい企業戦士になった人物は、数えきれないほど昔は居ました。
しかし、現在、この様な生徒の成長は、期待できないのです。校長は、保護者の顔色ばかり気にし、訴えられる可能性を無くす為、また、「三六協定」を守る為、教師に、課外活動で、遅くまで生徒たちを手伝うことを禁止しています。
課外活動を無理やり教師にさせることは間違いですが、課外活動を通して、生徒と成長して行きたいと望む教師まで、その権利を奪うことは誤りです。
現在、文科省は、教師が課外活動に関わらなくて良いように、地域に課外活動だけの専門家を育てようとしています。
これには、大きな弊害があります。なぜなら、課外活動だけの専門家は、生徒の成長より、お金儲けや自分の名声のためだけに、視点を置いてしまう可能性が高いからです。
生徒の成長を一番願うのは、やはり、親と教師です。
課外活動を指導できる教師がいるならば、やはり、教師が指導するべきなのです。
日本は、一時期、アメリカを凌ぐ程勢いのある経済大国でした。それは、過去の日本教育が、海外で活躍する企業戦士に、素晴らしい人材を送っていたからです。
現在、衰退の一途を辿っているのは、日本教育の改悪が原因です。その改悪の中心は、「三六協定」です。
西洋の教育に於いて、社会が教師に課する責任は、「教科指導」だけです。
しかし、日本は、西洋とは違い、伝統的に、「徳育」も学校の責任となっています。
西洋では、徳育は、教会が責任を持ちます。ですから、西洋では牧師の社会的地位は高いのです。
ところが、日本では、徳育については、伝統的に、学校の教師に任されて来たのです。
その為、日本の教師は、「先生」と言う称号が与えられるほど、西洋に比べて、日本の教師は、社会的地位が高いのです。
明治時代以来、日本の教育、特に、教師の在り方は、正しい方向にありました。そのお陰で、日本は、一時期、アメリカから恐れられる程の勢いのある国だったのです。
この事を理解せずに、政府や企業戦士たちは、「グローバル化」の意味を取り違え、日本人の素晴らしい素質を消してしまう方向に動いてしまったのです。
「グローバルとは、技術はユニバーサル・各国共通であるべきですが、文化はローカル・地方色豊かであるべき」なのです。
教育はそれぞれの国の文化なのです。企業戦士たちは、自分たちが昔得た、「日本の教育の素晴らしさ」に気付かず、「誤ったグローバル化」に走り、政府もその誤った方向に進んでいるのです。
ここに、日本の衰退の一原因があります。
日本の教師は、元来、安月給でした。高月給は必要でしょうか。高収入にするから、「頭でっかち」の、暗記力だけが良い、教師に向かない人間が、教師職に集まって来るのではないでしょうか。
しかし、その代わりに、教師は、社会的地位があるだけでなく、昔そうであった様に、社会から尊敬の念も持たれ、信頼される必要があります。 この点について、文科省は、教師のサポートしてあげるべきなのです。それによって、教師は、「教師に相応しいプライド」を持つことが出来るのです。
日本が、過去の栄光を取り戻すには、「誤ったグローバル化」よりも「教育の復活・教師の再生」が必要なのです。
志を持つ、子供と成長して行くことが好きな人物が、日本の教育界に数多く輩出することを願っています。