濁流から蘇る加茂川 京 都
学生時代、教育学部に居た時、私の師匠にあたる教授は、「帰国子女研究」の専門家でしたので、アイデンティティ(Identity)という言葉は何度も耳にしていました。しかし、本当にその意味を初めて深く知ったのは、3回生の時、卒論の研究のために、イスラエルに滞在した時でした。
私は、貧乏学生でお金がなかったので、「キブツ」という集団農場に滞在していました。イスラエルでは、男女皆兵制による労働力不足のために、7時間労働しさえすれば、外国人でも、ボランティアとして、「衣食住」が無料で配給されました。しかも、大きなピザとコカコーラか2回買うことができるほどの「お小遣い」も貰えました。
キブツからエルサレムに在るヘブライ大学へ出て、「卒論のデータ集め」する日は、朝の4時から11時まで働き、キブツの食堂で昼食をとった後、大学の図書館に行くという生活です。
そんなキブツの中に、佐藤さん(仮名)という日本人家族がキブツの正規メンバーとして働いておられました。
佐藤さん夫婦が私の面倒をよく見てくださったのです。当時、佐藤さん夫妻には、生まれたばかりの男の子と小学校に入学したばかりの大和君(仮名)、2人のお子様が居られました。大和君は、イスラエルの公立の小学校に通っていました。
イスラエルはユダヤ人の国ですから、ヘブライ語での授業ですが、どの学校も、世界のどの国にも劣らない、教育レベルの高い学校でした。
しかし、ご存知のように、当時イスラエルは、周りを敵国に囲まれているので、団結しなければ、直ぐに滅んでしまう状態でした。
その為、大和君の通う公立の小学校に於いても、ユダヤ人としてのアイデンティティ教育は強く、日本人である大和君をもユダヤ人に取り込むほどの強烈なものでした。
その為、「大和君が日本人として育って欲しい」と願っておられた佐藤さん夫妻は、大和君の日本語の家庭教師役を私に頼まれました。
少しでも、佐藤さん夫妻に恩返しができればと思い、日本語の家庭教師をすることを引き受けたのですが、大和君に教えることは、困難を極めました。
大和君は、家庭に於いては、日本語を話すように両親から指導されていましたが、幼稚園・小学校に入る頃には、ヘブライ語が脳を支配する第一言語になっており、感情が高ぶった時などには、両親に対しても、ヘブライ語でしか、話そうとはしませんでした。
大和君にとって、小学校のヘブライ語の宿題だけでもたいへんなのに、夜8時から始まる私との日本語の勉強は苦痛でしかなかったはずです。
当然、当初は、日本語の勉強が上手くできませんでした。
私は「どうしたら、大和君の日本人としてのアイデンティティを築くことが出来るのか。」真剣に模索しました。
私が出した結論は、「私が日本人の良さをキブツ全員の住民に示し、大和君に日本人の素晴らしさを間接的に悟らせること」でした。私は、大和君と一緒に居る時はできるだけ、「背伸び」をして、キブツの人たちに、日本人の誠実さ・時間厳守で素早く仕事を完璧に成し遂げる姿を見せて、キブツ の人たちから、大和君に、「日本人は素晴らしいね」と言わせる手段を取りました。
この方策が功を奏しました。大和君は私に、少しだけ尊敬の念を抱いてくれました。
「自分も日本人なのだから、日本語がかけるようになりたい。」と思ってくれるようになったのです。
現在、大和君は、イスラエルと日本との「素晴らしい友好の懸け橋」としての役割を担い、活躍しておられます。
日本は周りを海に囲まれて、あまりアイデンティティを意識する機会には、恵まれていません。
しかし、私はイスラエルでの生活によって、「アイデンティティ」とは何なのかを深く考える機会を得たようです。
日本に帰国した後、教師になった私は、さらに、「帰国子女とアイデンティティ」に問題意識を持つようになりました。
そしてさらに、クラスの生徒たちと生活を重ねるうちに、また、別の「アイデンティティ」の問題意識が、私の心に芽生えました。
それは、在日韓国・朝鮮民族の生徒たちをどのようにサポートするのかという課題でした。この件につきましては、第2章でお話し、特に若い教師の皆さんに語りたいと願っています。