ア ン ネ の バ ラ 京 都 2022年
2011年3月11日、東日本大震災により、日本全国が悲しみに包まれる中、一番悲しんで然るべき東北の人々は、逆に、全国の日本人に勇気を与え、「日本人は恐るべし」と思わせるほどの驚きと感動を世界の人々に与えることとなりました。
通常、「人間は死という極限状態に追い込まれると、自分のことしか考えなくなるもの」です。
従って、世界では、大震災のような惨禍の中では、人々は動物化し、略奪・強姦などが起き、治安が悪くなるのが常識です。
しかし、東北の人々は、震災の中でも、お互いを励まし、助け合いました。これは、全世界の人々にとって、驚異を感じるほどの出来事で、我々日本人にとって、東北の人々は誇りであり、日本の教育が世界最先端であることをも、東北の人々は証明してくれているのです。
教育の最終目標は、「たとえ、死という極限に追い込まれたとしても、人間の尊厳を最後まで失わずに居る」ということだと私は思います。
これを、実際に、実行出来た東北の人々は素晴らしいだけでなく、日本の教育の優秀さを全世界に示してくれたのです。
日本の教育は間違っていないどころか、世界有数の優秀な教育なのです。
英語を学ぶ生徒の皆様と若い英語教師の皆さんへ、
日本の教育が素晴らしいところの一つに、「バランスのとれた教科数」があげられます。
義務教育の最終段階である中学校では、9科目を1週間の中で学びます。
開発途上国の中には、世界競争に打ち勝つために、役に立ちそうな語学教育だけを偏重したりしますが、そのような教育は間違いでしかありません。
日本は、自分たちの教育を誇りに思いこそすれ、文科省の支持通りに、「ころころと変える必要はない」と私は思っています。
この事を前提とするならば、1週間の中の英語の時間数は、週6時間前後となります。英語の時間数が少ない学校は4時間ということもあり得るかもしれません。この限られた授業数を有効に使うにはどうすべきなのでしょうか。
英語の力は「読む・書く・聞く・話す」の4つに分けることができますが、日本の英語教育は明治時代から、「読む力」を重視して来ました。
それは、当時、先進国であった西洋から知識を学ぶためでした。
そして、この英語教育があったからこそ、現在の日本の繁栄があることを忘れてはならないのです。
日本の英語教育は、国語教育と同じく、今でも「人格教育」の中心で、その重要性は現在に於いても、未来に於いても不変です。しかも、国語とは違う、読解力・理解力を、「英語による読書」は与えてくれます。
さらに、最新の情報は、学会でも、ほとんど英語でまず発表されるので、英語は国際共通語としての重要性も増しつつあります。
一流の人物を輩出するためには、まず、生徒に「読む力」をつけさせることが必要不可欠です。
このことは、現在も未来も、昔と変わらないのです。いや、昔以上に重要なことと言わなければなりません。
この読む力を蔑ろにして、文科省や、企業戦士たちは、中等教育に「聞く力・話す力」をもっと重視するように求めていますが、大きな誤りだと私は考えます。
6時間しかない時間を全部割いて、「聞く力・話す力」をつけるために当てたとしても、その力の習得はほとんど不可能です。
なぜなら、「聞く・話す力」の習得には、「全没入(Total Immersion)の環境と忍耐を伴う「繰り返し作業」が必要で、週6時間では、「聞く・話す力」を獲得するには、全く足りなくなるだけ、「焼石に水」状態の悲惨な授業になるだけなのです。
しかも、「人格教育」の大切な時間が奪われるのです。
日本の「伝統的な英語教育」は、限られた授業時間数の中、「辞書を片手に、いかに、英文の内容を正確に把握するか」を追求した、日本人の知恵の詰まった素晴らしい手法なのです。
英語圏とはかけ離れた「文化」を持つ日本人にとって、「伝統的な英語教育法」は、ごく短時間で英語の古典まで読むことを可能にする日本独特の効果的な学び方なのです。
英語圏の外国人先生(Native Teachers)は、私たちがシェークスピア時代の文章を教えると「そんな言い方は古臭くて、今は使いません。」と直ぐに反論してきます。
しかし、私の視点は、「国際人としての素養」として、また、相手の信頼を勝ち取るためには、「相手国の古典は読んでいなければならない。少なくとも、古典を読む力がなければ、相手国の人達と対等に渡り合えない」ということです。
英語を共通語とする国際人たちと対等に親交関係を持とうとするなら、自国の古典だけでなく、相手国の古典を読んで、相手国の文化を熟知して、尊敬の念を抱かせることが必須だからです。
古典の読み方など、英文科へ行く者以外、大学では学べません。
高校では、「辞書片手に自分で努力すれば、英語の古典が楽しめる程度に成る。」ということを、英語教師は教えているのです。
「話す・聞く力」は独学で学んでいけますが、古典を読めるようになる「読み方・文法」は、教師から学ばなければ、一生身に付かない能力だからです。
もう一つ、「日本の英語教育」の強みは、「読む力に於ける、教師の為の教科書マニュアル(Teacher’s Manual)」が素晴らしいということです。
日本では、第一外国語として、義務教育最終段階である中学校の生徒が英語を学ばなければなりません。生徒たちに実力をつけるためには、「英語の能力の優れた教師」を多数手配しなければなりません。
しかし、実際には、各学校は講師の人数も含めて、優れた教師の確保というのは、「至難の業」となります。
教員免許を持っていても、優秀とは限らないからです。
しかし、「日本の教師のためのマニュアル」は、教師の実力不足を十分補ってくれるほど丁寧で、素晴らしいものです。
日本人は、英会話さえできれば、「尊敬の念」を相手に与えられると、勘違いしてしまいます。
英語圏では、聞けて、話せても、読めない、書けない人々がたくさん居ます。
従って、聞けて、話せても、相手国の人々から、尊敬されることには繋がりません。
「愛について」、「平和とは?」、「自由について」、「友情とは?」など、どの国民も憧れる事について、討論できる能力がなければ、相手国の尊敬の念を自分に持たせることはできないのです。
抽象的事象について、討論できる力が獲得できてこそ、相手から尊敬の眼差しで見られ、国際人として認められるのです。
誤解しないでください。私は「話す・聞く力」を軽視しているわけではありません。
私の意見のポイントは、中等教育では、自分のアイデンティティを深く掘り下げるために、また、人格教育のため、英語は国語と同じ様に、「読む力」の獲得が重視されるべきであるということです。
中等教育では、週6時間程度しかない中に、さらに「話す・聞く力」も学ばせようとする文科省の今の方針が間違っていると言いたいのです。
では、「話す。聞く力」はどのように、学ぶべきなのでしょうか?
私の考えは、聞く能力のために、初等教育で大量の英語音声を生徒に聞かせ、「聞く耳」を敏感にさせ、抽象的な事柄に議論できる能力は高等教育の場で行うべきだと考えています。
政府の機関、地方自治体の機関、もしくは、然るべき大学の機関に「英語村」を創設し、英語しか使えない、完全没入(Total Immersion)の環境を創り、ある程度の期間中、24時間集中教育を施し、「英語漬け」にすべきだと考えています。「英語村」については、次回のブログで詳しく述べるつもりです。