「 新島襄」とはどんな人物?
新島襄は明治の初めころに於いては「日本で英語に一番精通した人物」でした。幕末から明治時代の当初、他にも英語の話せる人はたくさんいましたが、その人たちは「漂流」などでアメリカの地にたどり着き英語を学びました。
しかし、新島襄はそのようなレベルではありません。「国禁を冒してまでもアメリカに渡り、アメリカの大学院まで卒業して帰国した人物」なのです。
従って、英語力のレベルは他の日本人と比較して「桁外れ」の実力の持ち主でした。
当然日本の中央政府は新島襄という人材を欲しがりました。現に中央政府から勝海舟が京都に来て、「政府で働けば立伸出世は思いのまま」と強く新島襄に、中央政府で働くことを勧めましたが、
新島襄は「強く固辞」し続けました。
その姿を見た勝海舟は、新島襄を評して「なんと私利私欲の無い人物か」とさらに彼のことを好きになったほどです。
ではなぜ、新島襄は東京へ行けば「立身出世は思いのまま」なのに、それを固辞したのでしょうか。
結論から言いますと、「彼は立身出世の官僚の道よりも、教育者として生き、しかも、政府が求める人材とは異なる人材を輩出する」という大志を心の内に秘めていたからです。
さて、同志社大学が設立された同じころ、「慶応義塾大学」、「早稲田大学」も東京に設立されました。
京都大学が「学問の大学」に対して、東京大学・慶応義塾大学・早稲田大学は「西洋に追いつけ、追い越せ」という政府の目標に、政府に「人材を輩出する」ために、主に設立された大学です。
しかし、政府が目標にした西洋、すなわちイギリス・フランスなどは
「世界各地で植民地をつくり、弱い人々を虐げ、挙句の果てには、アヘンを使って暴利を貪る国々」でした。
新島襄は「イギリス・フランスのような国」に日本がなることを望まなかったのです。
彼は「良きアメリカ時代」の「自分の利益よりも貧しい人々のために貢献する」という現在のグローバルの時代でも通用する人材を育てたい」と願ったのです。
そのためには、「政府からの干渉・圧力」の届かない地で大学を創設する必要がありました。
彼の「育てたい人物像」とは、「キリスト教に基づく良心に充満した人間」でした。
このことを理解して頂くために、ある一人の人物を紹介したいと思います。その人の名は「キュリー夫人」です。彼女はフランス人で、夫ピエールとともに、ウラン鉱からラジウムを取り出す ことに成功し、その功績でノーベル物理学賞を受賞し、フランスで最初の女性大学教授になった人物です。
さて、彼女の発見は、病気の治療に役立つので、アメリカをはじめ多くの国々、企業が欲しがる技術でした。もし、特許を取るなら、「巨万の富」がキュリー夫妻に転がり込むはずでした。
ところが、夫妻は特許を取らず「一生貧しいままでいる」ことを選択しました。
ではなぜ、特許をとらなかったのでしょうか。
キュリー夫人は次のように述べています。
「科学者の使命は世界の人々の幸福と平和に貢献することです。もし、私達が特許を取って、貧しい国々の人々が、自分たちの発見した治療法を使えば命が助かるのに、特許料を払えないために死んでいくとしたら、それは科学者として、許されないことです。科学者魂に反することなのです。」
「科学者魂に反する」と断言しました。
もし、私がキュリー夫人の立場にいるなら、「さらに世界のために貢献するためには、良い研究室が必要だ」と何か理由をつけ、特許を取得し、巨万の富を得たと思います。
多くの日本の科学者たちが特許を取るために、金持ちになるために研究を続けている現状からするなら、彼女の行為は「崇高な行為」と言えます。
ではなぜ、キュリー夫人はそのような崇高な行為ができたのでしょうか。
それは、キュリー夫人が「敬虔なクリスチャン」だからです。キリスト教には、「自分を捨てて、人のために尽くす」という美徳があり、人を崇高にしてしまう「不思議な力」があるからです。
この「不思議な力」に、教育者として、日本で初めて着目したのが新島襄でした。
彼は、政府の干渉されにくい「京都」で「グローバルの視野を持った、自分の利益よりも、弱い立場の人々のために貢献できる人物を育てる」ために同志社大学を創設したのです。
同志社大学は、東京に位置していなかったため、確かに、慶応義塾大学や早稲田大学のように、政府に人材を送ったり、歴史上に名を馳せる人物は数多くは輩出していません。また、両大学に比べて、新島襄の大学は標準偏差値や知名度もはるかに劣ります。
しかし、だからこそ、「新島襄と同じ志を持つやから(社)」、「キリスト教道徳によって企業の良心になる人物」を、同志社は、日本の企業に輩出できたのです。
慶応義塾大学の福沢諭吉氏、早稲田大学の大隈重信氏は、「歴史上名を冠した人物」であったかもしれません。
しかし、教育者として、新島襄はこの両氏よりも、「レベルの違う、次元の違う、「現在のグローバル時代でも通用する教育者」であったと言わねばならないと思うのです。
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